朱元璋 第一話「少女と小鬼」

  少女と小鬼

   一

 混沌とした時代。一つの出会いが次なる時代への扉を開けることがある。
 人と人との出会いは、たとえるならば歴史における人の合奏と言えるかもしれない。

 一人の少女がいた。じっとしていられない性質で常に走り回っている、そんな少女であった。
 だがひと時。身じろぎせずじっとしている時がある。それは美しい音曲が流れている時であった。
「……不思議」
 少女は目を細めながらつぶやいた。
「何が不思議なの」
 義母の問いに、少女は微笑みながら答えた。
「楽器はそれ自体も美しい音色がするけど、合わさった時がなぜこうも深みがあり、美しいのか……それが不思議なのです」
「こんな言葉を知っていますか。琴瑟相合わす」 
 少女はつぶらな瞳を輝かせながら、かぶりを振った。
「詩経にある言葉でね。……詩経はちゃんと学んでいるのでしょうね」
 この義母は教育熱心な女性である。あまりに熱心なため人々から「今孟母」と呼ばれている。孟母とは孟子の母のことで、教育のために三度も家を遷した逸話を持つ。孟母三遷とまでいかなくとも、義母は子供たちに出来る限りの書物を読ませることに腐心していた。
 もっとも子は親の思うままにならないのが世の常で、少女は詩経の表紙こそ開いたものの、まるで読みはしない。少女はごまかすように無垢な笑みを浮かべた。とにかく動くことが好きな少女は座って書物を読むことが何よりも苦手であったのだ。
「どういう意味なのですか?」
「琴瑟相合わす、ね。鈴陶は琴と瑟はわかるかしら」
 少女――馬鈴陶(ばりんとう)は元気よく答え、うなずいた。
「瑟は琴を大きくしたようなものでしょう」
「まあ、そうだけど……。どちらも趣があるけど、琴も瑟もそれぞれだと、とても単調なもの。でも相合わさった時はとても深みがあって人の心に響く。夫婦もまたかくあるべし、という諺よ」
 そう説明した途端、鈴陶は好奇心と悪戯心に満ちた笑みを浮かべた。
「な、何です?」
「いえ、ね。お義母様もそうだったのかなぁ、て」
 この問いに義母は顔を赤らめ、年甲斐もなく動揺してしまった。

 鈴陶十六歳。十六歳の少女といえば誰しも恋愛の話に興味を抱くものだ。ましてや好奇心旺盛な彼女にとって、この手の話は食いつかずにはいられなかった。
 義母――彼女は小張(しょうちょう)夫人と呼ばれるこの邸の奥方である。
 邸の主・郭子興(かくしこう)の二番目の妻で、先の妻もまた張氏であったため「小」張夫人と称された。
 鈴陶は子興とこの夫人の娘ではない。馬太公という子興の親友であった男の娘であった。 子興と鈴陶の実父はいわゆる侠徒であり、様々な人と敵対関係にある。その中の一人に太公は殺され、すでに実母を亡くしていた鈴陶は孤児となってしまった。そんな彼女を憐れんで子興と夫人は我が子として養ってきたのだ。
「ねえ、お義母様」
「親をからかうものではありません。それよりも明日か明後日には義父上がお戻りになるのですよ。あなたも手伝いなさい」
 そう言って話題を逸らせようとしたが、鈴陶には通じない。
「そうだ、鈴陶は知っていますか」
「何がです?」
 鈴陶はそのように返事をすると夫人は内心、ほっとした。鈴陶の関心はこの新しい話題にかたむいたからである。
「妙な者がいるのです」
 夫人はそう言うと、わざと声をひそめた。
「鬼、がいるのよ」
 少し間を置き、わざと周りを見回しながら、両手で鈴陶の顔を包んだ。そしていかにも恐ろしげな顔つきでささやいた。
「鬼がいるのですよ。ここ定遠に。それは恐ろしげな顔つきで……あなたみたいな娘などあっという間に食べてしまうでしょうね」
 この言葉に鈴陶は震えた。鈴陶は幼い頃から恐ろしい物が苦手であった。好奇心が旺盛なために、あれこれと想像して誰よりも恐ろしさを感じてしまっていたのだ。夫人の図は当たり、先ほどまで活発であった鈴陶はおとなしくなって、部屋から逃げ出してしまった。

 鬼がいる。
 この話は鈴陶をおびえさせ、義父母に対する好奇心を失わせた。だが、これでおとなしくなった――そう思ったのは夫人の早合点であった。鈴陶の好奇心が収まったのではなく、未知なる「鬼」に向けられたにすぎなかった。
「鬼をこの目で見ることが出来るなんて、そうそうあるものじゃない」
 そう思うと鈴陶は居てもたってもいられなくなってしまった。恐怖はあったが、鈴陶の好奇心がそれを上回った。
「そうだ今夜、鬼を見よう」
 思い立ったが吉日と、鈴陶はこの日の夜、鬼を見るべく邸を抜け出すことを決意した。鬼がどこにいるのか、それは郭家の侍女たちから聞き出している。 
 郭家は定遠では豪族としてその名が通っている。中国において塩を国家以外の者が売却することは禁止されている。なぜなら子興のような侠徒が適正な価格で塩を密売すれば、国家は専売による暴利を得ることが出来ないからだ。密売をする者には死罪が与えられた。だが命を賭した商売は大儲けができる。その財産をもって子興は定遠各所に大きな邸宅を構えてていた。
 郭家の本宅より西半里ほどに別宅の一つがある。その別宅には盗賊を捕らえておくための牢があり、そこに鬼が捕まっているらしい。その牢に鈴陶は忍び込もうと決意した。

 鈴陶は幼い頃よりお転婆で、よく邸を抜け出したものであった。
「夜中の月ってどんな顔をしているのだろう」
 と、思えば抜け出し、
「昼間と夜の街が違う、て聞くけど本当かしら」
 そう、思い立てばすぐさま行動してしまう。
 初めの頃はすぐに見つかっては叱られたが、近頃は抜け出す「技術」が向上し、滅多には見つからない。この日の夜も難なく、邸を抜け出すことが出来た。
 鈴陶の性格は大らかである。彼女の大らかな性格は郭家に流れる野放図な雰囲気によって育てられたものであった。この郭家の空気こそ四方より有能なる者を集め、子興の勢力を拡大させたと言える。そのためか、警備を真面目にするという堅苦しさがなく、鬼のいる牢へも容易く鈴陶は忍び込むことが出来た。
 牢内は暗かった。光は天窓からわずかに月光が差し込む程度で、目を凝らさなければとても前には進めない。鈴陶は邸から持参した蝋を灯しながら牢の中を進んだ。やがて奥にたどり着くと、何かが鎮座しているのが目に入った。
 ――あれが鬼なのね。
 鈴陶はそっと鬼の顔に光を当ててみた。どのような顔なのか、興奮のあまり鼓動が高まっていく。やがて灯りが鬼の目に当たると、鋭い眼光が鈴陶をとらえた。
 ――食べられる。
 思わず悲鳴を上げそうになった。恐怖が全身を駆けめぐったが、彼女の好奇心は恐怖心を凌駕した。長く重い沈黙の時間が流れ続けた。身体が小刻みに震える。目を逸らさず、じっくりと鬼の形相を観察した。
 この鬼、いや随分小柄であったので小鬼と呼ぶべきか――この小鬼は恐ろしげな顔つきをしている。
 あごは角張り、荒れ果てた大地のようなあばた顔である。鼻は岩山のようにそびえ、眉などは筆のように濃く太い。口もこれまた大きい。これほど大きければ人や牛でさえも丸呑み出来るのではなかろうか。
 ただ一点、鬼らしからぬ個所がある。それは優しげな目であった。もっともその形は美麗ではない。よくぞここまで、と言いたくなるほど小鬼の顔についている部位はどれもこれも醜悪な形をしている。
「貴方は……鬼、いえ小鬼様なのですね」
 それを聞いた小鬼は目をぎょろりとさせ、にらみ据えた。
「やはり人の言葉は通じないのかしら……」
 鈴陶は研究するように挙動を観察し、感想を述べた。小鬼は大きく息を吸うと、小声であるが鋭く叫んだ。
「俺は見世物ではない。小娘、あっちへ行け」
 小鬼は鈴陶を脅かして追い払おうとしたのだが、それは逆効果であった。鈴陶は小鬼が人語を話せることに驚き、そして手を打って喜んだ。
「怖くはないのか。逃げないのか」
「逃げるなんて、もったいない」
「もったいない?」
「だってそうでしょう。せっかく人語を解する小鬼様と出会えたのに。こんな機会はきっと二度とないわ。だから怖いなんて言ってられない」
「奇怪な小娘だ」
「奇怪は、余計。それに私は小娘ではないわ。ちゃんとした名前があります」
「俺はあんたのことを知らん。知らぬ者をどう呼んでいいのか、わかるはずもない」
「理屈っぽい小鬼様ね。まるで時計のよう」
 ふと鈴陶は昔、義父から聞いた話を思い出した。時計というものはいくつもの精密な歯車で構成され、時を正確に示す機械だと云う。この小鬼の話し方は無駄がなく、ひょっとすると時計とはこのようなものではないかなと埒もないことを考えた。鈴陶が時計のことを話すと、小鬼はしきりに感心した。
「小娘にしては物を識っている」
「小娘なんて呼ばないで。私は馬鈴陶。この邸の主・郭子興の娘です」
「馬鈴陶……なるほど。リンリンと小うるさいはずだ」
「人の名前を小馬鹿にして。小鬼様こそ名はお持ちでないの」
「名か……」
 小鬼は笑みを打ち消し、しばらく黙りこんだ。やがて口を開け、つぶやくように、
「朱重八(しゅじゅうはち)」
「朱重八……。まるで農民のようなお名前」
「昨年までは農民だったゆえ、農民らしい名を持つのは当たり前だ」
「小鬼様は人間だったのね」
「見ての通りの人間だ」
 重八は当然のように人であることを主張したが、鈴陶は見ての通りだと小鬼様なのだけどと思い、内心可笑しかった。
「飢饉のため故郷を追われて托鉢の旅に出た。僧名は興宗(こうそう)と言う」
「へえ、お坊様だったのね」
「醜悪な者が僧となって可笑しいのか。幼い頃からこの顔で生きてきたのだ。お前のような美しい女子に俺の気持ちなどわかるものか」
 重八は顔については人にいじめられ、苦労を重ねている。鬱屈した思いを爆発させたのだが、どうした訳か、鈴陶は顔を赤らめている。
「何だ、何ゆえ顔を赤らめている」
 重八にはまったく理解が出来ない。ひょっとすると気が触れているのではないのかと、重八は疑ったが、鈴陶は正気も正気であった。彼女が顔を赤らめたのは重八が「美しい」と言ったからだ。
 楽天家と言うべきか、単純と言うべきか。彼女の明るさはいつしか重八の心を解きほぐしていた。とにもかくにも、重八が人間であることを確信した鈴陶はすっかり恐怖から開放された。開放された鈴陶は思いつくまま矢継ぎ早に質問を発した。色々と書物を読み、勉強してきたが、所詮は机上の空論である。生まれて十六年。鈴陶は一度たりとも定遠を離れたことがない。
 一方。重八は諸国を巡ったが、ほとんど勉学をしていない。書物を読んだと言えば経ぐらいで、その寺にいた期間も短い。
 語っていくうちに二人は意気投合の快感を覚えてきた。
 鈴陶は聞き上手であり、重八は語り上手であった。鈴陶は全身で受け止めるように聞き、時に手を打って喜び、そして目に涙を浮かべて悲しんだ。また鈴陶をそれほど感動、共感させるだけの豊穣な表現力をこの少年は有していた。これほど語り甲斐、聞き甲斐のある相手は互いにいないと感じずにはいられなかった。
 半刻もすると、鈴陶は、
「重八様はやはり小鬼様だ」
 と感動のあまり、興奮ぎみに叫んだ。
「勘違いなさらないで。私が申し上げたかったことは、重八様の魅力が人並み外れているということ。人並み外れた力を持つ者を鬼と呼ぶのでしょう?」
「色んな人と出会ってきたが……あんたのような小娘には会ったことがない」
「重八様。私はあんたでもなければ、小娘でもありませんよ」
「鈴陶さん、だったな。鈴陶さんは勤勉だ」
「勉学は嫌いよ。でも色んなことを知りたい。多くの人に会い、そして見知らぬ場所をこの目で見てみたい。でも私は女の身。定遠どころか邸を抜け出すこともできない」
「鈴陶さんは糸の切れた凧のようにどこへ行くのか、わかったものでないからな」
 重八は珍しく冗談を言った。鈴陶は「意地悪」と、口をとがらせた。
「だが、今の世では女子だけではない。男とて外に出れば命が危うい。俺も好んで托鉢しているのではないのだから……」
 重八はそう言うと、暗い表情に戻った。
 鈴陶はなぜ、郷里を出たのかと尋ねたが、重八は答えようとしなかった。いや。答えられなかったのだ。事の深刻さは重八のあまりにも暗い表情を見れば一目瞭然であった。鈴陶が去った後、再び重八の身を重苦しい牢の闇が覆い隠した。

   二

 この時代――元(げん)の末期。
 至正(しせい)年間ほど漢民族にとって不幸な時代はない。
 漢民族でもとりわけ江南に住まう人々にとって、生き地獄のような時代であった。元王朝、すなわちチンギスハーンが建国した蒙古帝国が中国大陸を制覇して百余年。元朝は異なる民族を束ねるために厳しい身分制度を定めた。
 上層から蒙古人、西域の色目人、かつて金王朝に属していた漢人、そして最後まで元朝に抵抗した南宋の南人と区分した。この中でもっともひどい扱いを受けたのは南人であった。
 色目人は商才に長けており、元朝の財政を任されるほど優遇されている。漢人は冷遇されているが、半世紀以上元朝の支配下であったため、差別の度合いは低い。南人の扱いは扱いと言うにも烏滸しいほどで、奴隷と同格であったと言っても過言ではない。蒙古人がその気になれば地位や財産はもとより、命すらも奪うことが許されたのである。
 こんな話がある。
 フビライハーンによって元朝が興った頃、宰相バヤンが恐るべき提案を皇帝に上奏した。バヤンは蒙古至上を主張 ――すなわち病的なまでの国粋主義者として知られている。そのバヤンがどのようなことを上奏したかと言うと、次のようなものであった。
「我がモンゴルは草原の民。広大な牧草地を得るために李、王、趙、張、劉の五姓を根絶やしにいたしましょう」
 もはや乱暴というより狂気というべき内容であった。
 中国の姓は日本ほど種類は多くない。李、王、趙、張、劉の五姓を持つ者の数は膨大で、バヤンの上奏を実行したならば、恐るべき大虐殺が繰り広げられる。さすがにこの上奏は却下されたが、このようなことが上奏されること自体が異常と言わねばならない。
 南人に対する扱いは、かように過酷なものであった。このように人扱いがされていない南人であったが、皮肉なことに彼らの住む江南は富裕の地であり、元朝の経済は江南なくして成り立たなくなっている。
 元朝は南人に対して容赦はなかった。彼らを家畜のように追い立て、搾取し、限界を超えれば容赦なく重罪に処した。南人がどのように困窮しようと、彼らを救済する政策は施されなかった。蒙古人にとって富を生み出す間だけが南人を生かす唯一の理由であり、富が枯渇すれば無用の存在と捉えていたのだ。このような状況で南人たちが蒙古人を恨まない道理などあるはずがない。
 そんな中、江南において未曾有の大飢饉が発生した。老若男女問わず、餓死する者が後を絶たず、さながら生き地獄の様相を呈したのである。困窮した人々は餓死するか、流浪するか、はたまた盗賊となって人から物を奪う他生きるすべを持たず、「何たる悪しき世ぞ」と呪いの声が江南の大地を覆っていた。そんな混沌とした時代に重八と鈴陶たちは生を享けたのであった。

「義父様。世に鬼などいぬものですね」
 鈴陶は久しぶりに帰宅した義父の子興に語りかけた。
 子興は定遠の顔役であるため、多忙を極めている。一度邸を出れば、ひと月は戻ってこない。鈴陶が重八と出会った翌朝、珍しく帰宅していた。
「鈴陶、夜中に抜け出して鬼に会ったのですね」
小張夫人が叱りつけたが、鈴陶は敢然と言い返した。
「義母様が鬼はいる、なんてお話しになるから……」
「だから何です。鬼がいたから、女子が夜中に邸を抜け出して良いのですか」
 そう言って鈴陶の屁理屈を論破した。夫人がさらに声を上げようとすると、子興はやめるよう手で制した。久しぶりの帰宅だと言うのに、妻と義娘の喧嘩に巻き込まれてはたまったものではない。だが、一方で恐ろしげなことを考えていた。ほんの一瞬だが、子興の眼が怪しく光ったことを鈴陶は見逃さなかった。
 ――義父様は小鬼様を殺めるおつもりだ。
 鈴陶は義父の眼光に殺気を感じ、戦慄を覚えた。
 子興は鈴陶にとって子煩悩な父親であったが、堅気の人間ではない。街の世話役として一目置かれているが、それは闇社会の頭として人々に恐れられている。非合法――私塩を売る仕事をこなすためには、時には商売敵を抹殺しなければならない。やるかやられるかの世界である。
鈴陶は義父の魔手からどうしても重八を逃したかった。なぜ助け出したいのかはわからない。好奇心もあり、冒険心もあった。何よりも義父に小鬼――いや、少年を殺めさせたくない気持ちが一番の理由であった。 
 鈴陶は策を練った。だが助けるには鈴陶一人ではどうしようもない。仲間が必要だと考えた鈴陶は義兄と義弟を巻き込むことにした。
 鈴陶には義理の兄弟がいる。義兄は郭天叙(てんじょ)、義弟は郭天爵(てんしゃく)と言って、子興と夫人の息子たちである。兄の天叙は子興の子とは思えないほど温和で、いつも部屋にいて書に親しむ青年であった。弟の天爵は兄とは性格が正反対で腕白な少年であったが、鈴陶のお転婆ぶりに敵わず子分のように従っている。この二人はいつも鈴陶に付き合わされ、その度に両親に叱られてきた。
鈴陶は二人を見つけると太陽のような明るい笑みで近づいた。
またか――天叙は反射的に身構えた。昔から鈴陶が何かを仕出かす時は決まってこのような笑顔を浮かべるからだ。
「小鬼様をお助けしたいので、義兄様も天爵も手伝ってください」
「そなたはもう十六ではないか。女子らしく身を慎め」
 そう苦言したが、鈴陶は意にも介さない。義兄は習性のように鈴陶の案に反対するため、反射条件のようにどうすれば手伝わせられるか鈴陶は心得ている。
「義父様に少年を殺めさせたいのですね」
 そう言うと鈴陶は涙ぐんだ。天叙は心優しいと言うより気弱で、父の残虐な行為を毛嫌っていた。何よりも妹の涙が苦手で、この時も鈴陶の頼みを聞くしかなかった。
 次は義弟だが、こちらは簡単である。
「天爵、参りますよ」
 この一言で良かった。腕白な天爵は冒険事が大好きで、二つ返事で義姉の命令を引き受けた。
 鈴陶は天性の作戦家であった。
性急に事を進めることはしない。何も考えずに牢へ向かっても重八を助けるどころか、近づくことも出来ない。
 ――何か企んでいるな。
 子興は鈴陶の様子を見て、そのように察して警戒をしていた。鈴陶はどうすれば重八を助けることが出来るか、策を練り続けている。
 ――義父様を知りて、百戦百戦危うからず。
 まるで孫子にでもなったかのように、義父の動きを探ることから始めた。
 子興がどのように考えているのか、まさか直接本人に聞く訳にはいかない。鈴陶は天叙に子興の子分たちを探るよう願い出た。
「義兄を使うのか」
 天叙は気色ばんだが、鈴陶は微笑しながら、かぶりを振った。
「使うだなんて、とんでもない。鈴陶と違って義兄様は信望がおありです。私が動けば、勘繰られてしまいます。このお役目は義兄様以外、誰も成しえません」
 鈴陶はおだてにおだてた。
 ――私も相当な悪(わる)だな。
 と、鈴陶は我ながらあきれてしまう。義弟の天爵は部屋に呼び、一緒に遊んでやった。これは鈴陶が動いていないことを大人たちに認識させるためであった。
 半刻ほど。ようやく天叙が戻ってきた。
「父上はすぐにでも鬼の首を刎ね、市場に晒すそうだ」
 と言って、泣き出した。
「明朝、刎ねるとのことだ」
 とようやく答え、鈴陶は感謝の意を述べた。明朝であれば、今夜しかない。と鈴陶は重八救出を決断した。

 雲一つなく、月が煌々と夜空を照らしている。
 ――鈴陶は何をしでかすつもりか。
 子興は鈴陶が何をするのか楽しみにする一方で、所詮は子供のすることだと、たかをくくっている。鈴陶は強かであったが、世の荒波を切り抜けてきた子興からすれば児戯にすぎなかった。
 鈴陶を完封する方法はある。このまま部屋に押し込め、厳重に見張りを付けてしまえば全ては終わろう。だがそれでは面白くも何ともない。子興はわざと野放しにして、鈴陶の智恵とやらをじっくりと見てやるつもりであった。子興は年甲斐もなく、心躍っていた。

 物事には呼吸(いき)というものがあることを、鈴陶は本能的に心得ている。あの義父のことである。鈴陶の様子から重八救出をしないとは考えないであろう。だが子供たちに対する監視が緩やかであり、鈴陶は首をかしげた。
 ――こちらの様子をうかがっている。
 そのように判じた。それならば、と鈴陶は考えた。夜半になっても動かずにいようと。
 ここまで大人たちが静かであるということこそ、義父が鈴陶たちの行動に警戒している証拠であり、相手の警戒の心をいなす必要があると踏んだのだ。

 この鈴陶の読みは当たった。
 ――鈴陶は動かぬつもりか。
 子興は夜半まで鈴陶たちの動きを注視しながら就寝せずにいたが、いつまで経っても動く気配がない。ひょっとすると、あの義娘はこちらの警戒に気づいて、行動しないのではないかと考えた。いつまでも子供の悪戯に付き合わされてはたまったものではなく、やがて眠りに就いたのである。

 寝静まった定遠の街に、けたたましい鐘鼓の音が鳴り響いた。そして子供たちの騒がしい声がこだましたのである。
 鈴陶は定遠の子供たちの人気があった。彼女のすることはいつも少年少女たちの冒険心を掻き立てる。そのため彼女の呼びかけがあれば子供たちは挙って協力してくれたものであった。
 この騒ぎを耳にした子興は、跳ねるようにして起き上がった。子興の顔は喜色に満ちていた。
「わしの耳目を逸らす魂胆か」
 この騒ぎは陽動策だと瞬時に看破した。堅気でない郭家の食客や子分たちは何かにつけて物見高い。牢番をしている部下たちも同様で、騒ぎを見に外に飛び出していった。その間隙を縫って天叙が別働隊を率いて牢にやって来たのだ。彼らの手にはそれぞれ小麦粉が握られている。
「小童ども、大人をなめるなよ」
 子興はそう叫ぶと、天叙たちを捕まえるよう、子分に命じた。しかし子供たちは大人に比べて敏捷で、大人たちの足元を縫うように駆け抜けて、小麦粉をぶつけて撹乱させた。
 ――鈴陶の計画は失敗した。
 大人の誰もがそう思ったが、そうではなかった。彼女の計画は大人たちの想像を一歩超えたものであった。鐘鼓で騒いだ子供たちを囮だと子興は思っていたが、実は天叙たちこそ大人たちの目を引きつける真の囮であったのだ。

 ――何の騒ぎだ。
 外から聞こえてくる騒ぎに重八は首をかしげた。ひょっとすれば誰かが――たとえば、あの娘が助けに来てくれたのではないか、とかすかに希望を抱いたが、すぐに希望を打ち消してしまった。
 ここまでか――あきらめかけていたその時、重八の運命に一条の光が差し込んだ。その光とは言わずもがな。鈴陶であった。
「小鬼様、お逃げなさい」
「鬼を助けて良いのか」
「重八様は小鬼様ではないのでしょう」
「……人だと認めてくれるのか」
「人らしからぬお顔だけど、そんな美しい瞳を持つ小鬼様などいません。その瞳こそ重八様が人である証拠よ」
 重八はこの少女が不思議でならない。今まで重八を醜いとさげすむ者はいても、瞳が美しいなどと褒めてくれた人はいなかった。
 鈴陶は重八の瞳が美しいと言う。
 だが重八は素直に思う。縁もゆかりもない醜悪な放浪坊主を必死に救おうとする鈴陶こそ、まこと美しいのだ、と。
「話は後。いつまでもお義父様をごまかしきれるものではありません。街の外れまで走ることが出来て、重八様?」
 重八は無言でうなずくと、鈴陶は手を取って牢から脱出させた。

 郭邸の背には小さな丘がある。その丘を越えて、東に行くと雑木林があり、さらに駆け抜けると郊外に出ることが出来る。二人は走りに走った。何度も転んだが、その都度、鈴陶は愉快そうに笑う。息せき切りならが走り続けて、ようやく脱出することが出来た。
「ここまで来ればもう大丈夫。……あ、空が明るくなってきた。今日はたっぷり叱られるのだろうな」
 何がおかしいのかは、彼女自身にもよくわからない。だが体底から笑いが湧き出るようでどうにもならなかった。
 一人笑う鈴陶を前に重八は、眼に涙を浮かべていた。つい先ほどまで十八で生涯を終えるのかと覚悟していたが、この不思議な少女と出会えたことで命を拾うことが出来た。
 ――この人は弥勒菩薩ではなかろうか。
 冗談でも過剰な気持ちでもなく、素直に重八はそう感じた。そう思うと自然と重八は深々と頭を下げたのである。
「重八様はこれからどうされるのですか」
 この問いに対する答えを重八は持たなかった。托鉢と言えば聞こえが良いが、帰る場所も行くあてもない乞食旅にすぎない。
「そうそう。饅頭を持ってきたことを忘れていました」
 そう言うと、鈴陶は無造作に胸襟を開いた。
 見てはならぬ――そう自分に言い聞かせようと顔を背けたが、鈴陶のまばゆいばかりの白い肌が重八の心をとらえて離そうとしなかった。
 そんな重八の葛藤など他所に、鈴陶は無邪気に笑みを浮かべている。手には饅頭二つが握られていた。
「鈴陶さんの肌が赤くなっている……。火傷をされたのではないか」
「大事ありませぬ。どうせなら温かい饅頭をと思ったので……」
 重八は黙って饅頭を見つめていたが、思いついたように何かを探し始めた。やがて戻ってくると、その手には何かの草が握られていた。
「紫草と申します。紫草は火傷によく効きますゆえ、邸に戻られたらお使いください」
 重八はにっこりと笑って、紫草を手渡した。
 ――良い表情(かお)をするなあ。
 この時の重八の笑みを見て、鈴陶ははっとした。牢にいた時の重八は鬼のような形相であったが、この時の笑顔は全く違っていた。たとえるならば初夏の風のように爽やかで、心の奥に染み入るような――そんな笑みであった。
「ありがとう」
 紫草を胸に抱きしめ、礼を述べた。重八は目元だけを笑ませてうなずいた。
「ご恩は生涯忘れませぬ。貴女が……」
「鈴陶。馬鈴陶です」
「鈴陶様がお困りになった時は、身命を賭して駆けつけます」
「ありがとう。でも重八様――」
 鈴陶は、にこにこしながら言葉を繋げる。
「せっかく助かった命なのです。決して粗末になさらないで。恩と思われるなら、いつの日か元気なお顔を見せてください。それが私への恩返し」
 重八は微笑しながら再会することを鈴陶に誓った。
 饅頭を袖下に入れると、重八はその足を東に向けることにした。理由は何もない。行くあてもないのなら登りいく太陽へ走っていこう――その方が気分は良いと思ったからであった。
「またいずれ――」
 そう言葉を言い残すと、颯爽と重八は駈けていった。それはまるで太陽の中に飛び込んでいくように、鈴陶には思われた。
「……さて、叱られに戻りますか」
 大きく息を吸って、鈴陶は響くような大声で笑った。
 戻ればきっと義父母から叱られるであろう。しかし鈴陶はそのようなことを気にも留めていない。あの小鬼様がどのようにして生きていくのか、また次に会えたならばどのような青年になっているのか――あれこれ想像すると自然と陽気な歌を口ずさんでしまう鈴陶であった。

   三

 重八は九死に一生を得た。命を拾ったとは言え、前途は闇に包まれたままで、どう生きていくかなど考えなどなかった。
 この世に生を享けて、十八年。考えてみれば、生まれてから良いことなど一つもなかった。思い出と言えば悲惨なことばかりで、考えるだけで涙があふれ出る。しかしもはや絶望はしなかった。荒地から芽を出す雑草のように逞しく生き続けようと重八は意を決している。
 ――あの娘のように生きていきたい。
 鈴陶の屈託のない笑みを思い浮かべては、あのように笑って生きていきたいと心を強くした。生きて生き延びて、再びあの娘の笑顔を見てやる――何もない重八にとって彼女の笑顔こそが生きる支えになっていた。 
 重八はさらに走った。疲労のためか、足がもつれて何度も転んだが、それでも走り続けた。休まず一刻ほど走ったが、体力が尽き果ててしまい、倒れ込んでしまった。大の字になって寝転び、深く眼を閉じる。不思議なもので、疲れ過ぎているとかえって眠れない。
 ――まるで大地に吸い込まれそうだ。
 五体全てが銅のように重く、指一つ動かせなかった。ただ頭だけは覚醒しており、色々と考え続けた。
 ――暗闇は恐ろしい。
 流浪の旅に出てから、暗闇の恐ろしさを思い知らされた。故郷を出て一年余り、野で寝ることには慣れたが、暗闇への恐怖だけはどうにもならない。
 一人で生きていけると思うな――。
 亡き父がよくそんなことを口にしていた。人は人といることで初めて安らぎを感じることが出来る。暗闇は孤独であることを思い出させ、陽光は孤独を忘れさせてくれた。
 ――皆がいてくれたらな……。
 重八の脳裏に家族と過ごした日々がよぎる。
昨年、父母と長兄が相次いでこの世を去った。生き残った家族は次兄と李家に嫁いだ姉しかいなく、その家族もどうしているのか、重八に知る由もなかった。 
 あれこれ考えているうちにすっかり夜が明け、朝日が眼に差し込んだ。
 温かく心地が良い。陽光を浴びていると、なぜか鈴陶の顔が思い浮かぶ。力無く饅頭を口に入れ、食べ終えると、深い眠りに就いた。

 随分長く眠っていたらしい。目覚めると東にあった太陽が、西にかたむきつつあった。どうやら半日ほど眠り込んでいたようだ。
「今日も終わりか」
 重八は長く伸びた夕影を見て苦笑した。流浪の身ゆえ時間が余りある。だがそれにしても何と無駄な一日を過ごしてしまったことか。我ながら情けないと思いながら、大きくあくびをした。するとどこかからか枯れた笑い声がした。
「誰だ」
 重八は体を掻きながら周囲を見回した。すると岩の上に六十ほどの老人が端坐していた。枯れ木のように痩せており、風が吹けば倒れそうな体であった。
「小僧、どこから来た」
「濠州鐘離だ」
「それはまた貧しい所から流れてきたものよ」
「鐘離は貧しくはなかった。それに俺は流れてきたのではない。托鉢の修業だ」
「見栄を張るな」
「見栄だって張るさ。俺は十八で、あんたのような枯れ尾花じゃない」
「咲き乱れし十八の花、か」
 老人は花にしては不細工なものよ、と憎まれ口を叩いた。重八は角張ったあごを突き出し、そっぽを向いた。それから双方とも無口になり、沈みゆく夕陽を飽くことなく眺めた。
「爺さん、あんたも流浪しているのかい」
「乞食坊主と一緒にするな」
「乞食爺でなければ何なのだ」
「あれよ……」
 老人は力なく背中を指差した。見れば岩の割れ目に大きな木箱が挟まっていた。
「貸し本、か。何の本だ?」
「湖海散人いう暇な文人が書いた講談さ」
 岩の上に重八は飛び乗り、木箱がどのようになっているのか見てみた。木箱は割れ目に嵌り込み、どうにも抜け出せない。
「器用なことをしたもんだ」
「岩を乗り越えようとしたら割れ目につまづいてな。それで木箱をはめてしもうた。小僧、お前はたしかに僧侶だな」
「見てわからぬか」
「わからぬな。だから尋ねておる。もし僧侶なら功徳だと思ってこの爺を助けてやらぬか」「ああ、良いよ。だが、腹が減ってどうしようもない。爺さん、何かないか」
 重八は食糧を分けるよう手を出した。老人は「乞食坊主が」と悪態をつき、腰元の袋から干し肉を投げ渡した。肉を食べながら、木の棒を探し出し、その先を割れ目に突っ込んだ。
「こうやって肉を食べながら岩の上にいると思い出す。子供の頃はいつも腹が減っていた」
「今もじゃないのか」
「まあ、ともかく腹が減っていた。腹の虫を鳴らせながら牛の面倒を見せられたものだ。ある日、仲間の誰かが腹減ったと泣き出してな」
 さては、と老人は重八をにらみすえた。
「そうさ。食ったのさ。皆で楽しく、な。それにしてもあの肉の旨かったこと。特に肩の部分などは絶品だったぞ」
 牛の味が蘇ってきたのか、重八は舌なめずりする。
「だが食べ終わった後が大変だった。飼い主が激怒してな。食ったなんて言ったら殺されただろうさ」
「お前のことだ。くだらぬ言い訳をしたのだろう」
 重八は大笑いしながら、岩の割れ目を指差した。
「岩の間に尻尾を埋めてな。牛がここに入ったまま出てこなくなった、と言い張った。もちろんそんな言い訳が通じるはずもなく、こっぴどく叱られたもんさ。拳骨の痛さも忘れないが、生きている間に牛を食うことはできないんだろうな……」
 重八は哀しい顔つきで、木箱を取り出すべく、棒を動かし続けた。老人は笑いをやめ、鼻をほじりながら、作業の様子をただ眺めるばかりであった。
 半刻後、木箱をようやく取り出すことに成功した。陽はすっかり落ち、辺りは暗くなっていた。重八は息を切らせながら、岩山に座り込んだ。
「爺さん。一体何の本が入っているんだい」
「三分が入っている」
 三分とは三国時代の英雄たちを描いた講談で、『三国志演義』の原型となる作品である。宋代から三分は庶民に親しまれ、誰でも知っている物語であった。重八も昔はよく父から三分の話を聞かされたものだった。
「お前は誰が好きだ」
「周瑜かな。迫り来る曹操に立ち向かう姿は漢(おとこ)の中の漢さ」
 重八の故郷は三国時代でいえば呉の領域にある。地元贔屓ということと、強大な権力に立ち向かった孫権や美丈夫と呼ばれた周瑜を、重八は好きでならなかった。
「ならばこれをやる。周瑜が好きなら、その一冊だ。木箱を取り出してくれた礼だ。もっとも字が読めない者には不要だがな」
「坊主だと言ったろ。読んでみせるさ」
 嬉しそうな顔をしながら頭を下げ、礼を述べた。その笑顔は妙に愛嬌があり、老人はいつの間にか重八を気に入ってしまった。
「面白い相をしているな」
「鬼のようだ、とでも言いたいんだろう」
「良いから、見せてみろ」
 老人は一喝し、無理やり重八の顔を鷲づかみにして観相した。何とも手荒な観相だったが、顔を動かさず重八は我慢をした。やがて手を離すと、老人は大きく息をついた。
「悪たれにはもったいないほど良い相をしている」
「俺が良い相とはいい加減なもんだ」
「わしも信じられぬがな、いずれ大事を成すと、出ておるのじゃ」
「大事を成す、ねえ。まあ野垂れ死でなければ何でも良いさ」
「最後の最後まで命は惜しめ。良いな」
「こんなくだらねえ世だからこそ、最後まであきらめねえ。爺さんも達者でな」
 重八は手を合わせ、東南の方角に体を向けた。
「東南はやめておけ。卦が悪い。向かうなら西北にしろ」
「あてのない旅だ。卦の良い方へ行こう」
 重八はにこりと笑い、卦に従って西北へ足を向け、老人は東南へと進んだ。果てしない旅であるが、重八は一歩一歩、力強く地に足を着けながら前に進むのであった。

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