一海漫遊記【吉野山2004年】

吉野山の旅~2004年5月22日~
 吉野にしようか、それとも比叡山?と悩んでいました。しかし行きつけのカレー屋で食事をしたいがために吉野になりました(注釈:一海行きつけのカレー屋さんは阿倍野にあります。吉野行急行が阿倍野から出ているため、地理的に良いのです^^;)
 と機嫌良くカツカレーを食べた後、近鉄電車に揺られながら吉野へと向いました。
 吉野へは近鉄あべの橋駅から急行で1時間45分で到着します。思えば吉野へ行ったのは小学五年の林間学校以来のことで、20年近く吉野はご無沙汰いたしておりました。小学五年の時は日本史を習っておらず「後醍醐天皇?誰、それ?」状態でした。しかし高校時代に太平記ファンとなった今では心ときめかせる旅行となりました。
吉野山の正門・黒門
三大鳥居の一つ・鋼の鳥居
 さて吉野駅を降りますとロープウェイがあります。そしてロープウェイを降りてすぐに目に入るのが黒門です。黒門にさしかかりますと、昔は大名といえ下馬しなければならなかったそうです。
 そして更に行きますと日本三大鳥居の鋼の鳥居があります。ちなみに三大鳥居とは巌島神社と四天王寺、そして吉野のこの鳥居のことを指します。
風格漂う蔵王堂。中には天海の木像も♪
 更に進みますと吉野で最も大きな蔵王堂があります。そしてー蔵王堂の前には後醍醐天皇の第二皇子・大塔宮護良親王の陣跡があります。大塔宮は父帝の挙兵に呼応し、各地でゲリラ戦を展開しました。やがてそのゲリラ戦が功を奏し、鎌倉幕府打倒へと向います。しかし一度は失敗し、身を隠すこととなりました。その時、身代わりとなった村上一族と別れの宴をしたのがこの「大塔宮御陣址」なのです。ちなみにこの史跡の後方には大塔宮の代わりに討ち死にした村上義光忠死の碑が立っています。
大塔宮御陣址
大塔宮の身代わりとなった村上義光忠死の碑
 蔵王堂の横に行きますと八角形の屋根を有した奇妙な寺院があります。ここが南朝の御所があった場所で、とても静かな場所です。この近くには南朝の後村上天皇と長慶天皇の歌碑が残されています。
かつて南朝の御所があった吉野朝宮址
 さて蔵王堂を後にしまして道を進みますと、お土産物屋ロードにあたります。坂がなく平坦で見ていて楽しい道です。そして一海の目を釘付けにしたのが―そう!吉野ではほら貝が販売されていたのです。また鹿革も売られていました。「ああ、また吉野に行かなくては」と決意したのはまさにこの瞬間でした^^;そしてこの時、吉野名物の柿の葉寿司を購入したのですが・・・これが後ほど一海を助けようとは夢にも思っていませんでした。
壱海甲冑隊に欲しい法螺貝!!
 そのお土産物屋ロードを突き進みますと、今度は太平記の世界から一転、義経記の世界に変わります。兄・頼朝に追われ、吉野に逃げた義経と静御前が別れた場所とされる勝手神社です。また少し神社から横に逸れますと、大日寺があります。このお寺は壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇)が潜んでいたとされるお寺です。しかし吉野という場所は古代、平安、南北朝と様々な歴史が刻み込まれた山と言えます。
義経と静御前が別れた勝手神社
 次は蔵王堂と同じく吉野の中心的観光地・吉水神社です。この神社の宝物館は必見です。まず小学生の頃唯一残っていた後醍醐天皇の玉座があります。また義経主従の隠れ部屋や義経所用の腹巻鎧なども展示されています。腹巻鎧はとても小さく、まるで稚児鎧のような小ささでした。しかし小札の組具合や縅の色配合など目を見張るものがあります。ああ!腹巻鎧が欲しい!!(爆)
貴重な宝物が豊富な吉水神社
 とまた一海衝動波を出しかかっていたのですが、今は観光の時。一路、後醍醐天皇の眠る如意輪寺へと足を向けました。
 如意輪寺は吉野史跡郡から離れた場所にあります。そこでどのように道を取るのかは旅する人が太平記ファンか否かで別れます。太平記ファンならば是非如意輪寺へ行くことをお勧めいたします。
 そしてちょっとした山道を歩くこと15分ほどで、ようやく如意輪寺へ到着しました。如意輪寺には楠木正成の遺児・正行が後村上天皇と拝謁した場所です。そして決死の覚悟を歌にしたと伝えられています。
如意輪寺の境内
楠木正行の歌碑
 そしてもう三十にもなろうとしている一海がすかさずやったのは楠木正行気分での記念撮影です^^;私はあまり旅行中に自分の写真を撮らない主義なのですが、どうしてもこういう写真は撮ってしまいます^^;;
甦る小楠公??
湊川の戦いで別れる楠木親子像
 すっかり気分は楠木正行(?)になった一海は念願の後醍醐天皇陵へお参りしました。ちなみに後醍醐天皇陵の下にある「世泰親王」陵とは長慶天皇の皇子のお墓です。
長慶天皇の皇子・世泰親王の墓
 その世泰親王陵を少し登りますと、ようやく後醍醐天皇陵に辿りつきます。
 ところで後醍醐天皇陵は北に向けて建てられています。通常天皇陵は南に向けて建てられます。それは「天子は南面す」という言葉があるように天皇は宮殿も陵も南面して造らなければならないのです。しかし後醍醐天皇があえて北面に建てさせたのは京都に帰りたいという思いと、北朝や足利氏への敵愾心を露わにした結果なのです。中国宋の政治を実現させようと理想に燃えた天皇でしたが、日本の現状と合わなかったため、わずか2年ほどで夢破れてしまいます。いつの時代もそうですが、時の流れはいかなる偉大な人物でもあがないきれるものではない一例だと思われます。
嗚呼!後醍醐天皇陵
 と万感の思いを馳せながら、次はどこへ行こうかと考えたその時でした。雲がかげり、嫌な風が吹き始めました。「まさか・・・雨降るんやないやろな・・・」と不安に思った途端に雨が降り始めました。しかもしばらくは雨宿りする場所もなく、傘もありません。さあ、どうするかーとその時一海を救ったのが、先ほど購入しました柿の葉すしのビニール袋でした。急遽、合羽代わりにし、引き返すことにしました。
土砂降り^^;;
 しかし天は無情で、上記の写真のような土砂降りになる始末。ただ不幸中の幸いでしょうか、小屋があり、土砂降りを回避することが出来ました。その後、雨の中を歩く怪しいビニール男を吉野の方々が変な目で見ていました(涙)
くず餅セットー冷えた体に熱お茶は助かります^^
 蔵王堂へ戻った時はようやく雨もやみ、丁度いい時間になってしまいました。そこで吉野を後にすることに決め、下山しました。最後はくず餅を食べたり、吉野限定のさくらソフト、そして柿の葉すしを一気に食べてしまいました。(風邪をひかないように栄養をつけたれ、と自分に言い聞かせていました・・・というのはただの口実です^^;;)
 雨に降られ、大変でしたが、とても楽しかったです。今度は紅葉か桜の季節に訪れてみたいものです。

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