朱元璋 第四話「縁、結ぶ 」
縁、結ぶ
一
「鈴陶様はいつも笑っていらっしゃる」
これが濠州紅巾軍元帥・郭子興の養女・馬鈴陶の評判であった。
鈴陶十九歳。三年の歳月は、あどけなかった少女を美しき女性へと成長させた。
鈴陶は美しくなったが、多分に少女時代の活発さを残しており、彼女は人々に美しいというよりも可愛らしいと印象を与えていた。
国家との抗争は辛く、そして長い。しばしば滅亡の危機に襲われ、殺伐とした空気になるものだが、鈴陶の笑顔は兵士たちの緊張を緩め、暗い気持を明るいものとした。
美人と言えば鈴陶より評判の娘がいる。それは鈴陶の義妹・芙蓉(ふよう)であった。
鈴陶より七つ年下でまだ童女であったが、その目鼻立ちが良く、大人びている。そのためか、この姉妹が並ぶとどちらが姉で妹なのかわからない。兵士たちは姉とするなら馬鈴陶、嫁を娶るなら郭芙蓉、と羨望の眼差しを向けたものであった。いずれにせよ烏合の衆であった郭軍にとってこの姉妹は心の支えとなっていた。
至正十二年閏三月二十日。
五日ほど降り続いていた雨が止み、久しぶりの快晴であった。鈴陶は夜明けとともに起き、朝から城内を走り回っている。そんな義姉に芙蓉は、
「義姉様は童のよう」
と、眉をしかめてたしなめた。その言い方はまるで義母の小張夫人のようで、鈴陶は弾けるようにして笑った。
「まるで義母様のようで生意気」
鈴陶は頭をなでて髪を乱してやった。芙蓉は怒ったが、その顔が可愛く仕方がない。鈴陶が再び走り出そうとすると、今度は夫人が芙蓉と同じような顔をして注意した。
「元帥の娘が何を走り回っているのですか」
「ここにいる皆は義父様のために戦われているのです。兵の働き一つで義父様は浮きも沈みもする。その兵のために郭子興の娘が世話をして何が悪いのですか」
そう言うと、可笑しくもないのに笑い出し、またどこかへと去ってしまった。
「あの娘にかかれば何でも遊びになってしまう」
と、半ば呆れ、半ば可笑しがった。
遊び――夫人はそう言ったが、鈴陶本人にとって遊びなどではなかった。誰よりも真剣に郭家のためを思って東奔西走していた。
本音は言えば、義父の挙兵は反対であった。この乱れきった世を正すため兵を挙げる――その大義は甘美な響きがある。だが相手は強大な蒙古である。たしかに子興は人々に慕われ、信望もある。だが、それは義侠界という小さな世界に限っての話でしかない。
――義父様では難しい。
口に出さないが、蒙古を倒すほど義父に器量があるのか疑問であった。だが、義父は後に戻れない挙兵の道を選んでしまったのである。
挙兵すれば道は二つしかない。一つは蒙古を倒して志を遂げること。そしてもう一つは一族滅亡。
――義父様を殺したくない。
どうしても助けたい。では義父を助けるにはどうすれば良いか。答えは義父を助ける有能な家臣団を確保することであった。幸い、郭軍には優秀な人材が集まっている。
まず邵栄(しょうえい)がいる。
小柄な人で、鈴陶よりも背が低い。しかし戦となれば冷静沈着で、荒くれ者ばかりの郭軍を一つにまとめる人格者であった。
次に挙げられるのは、鄧順興(とうじゅんこう)である。
彼は子興と同い年であるが、若者に引けを取らない勇猛な人物であった。平素は詩をたしなむなど文化人であり、平穏な時はしばしば詩会を催していた。子興は癇癪持ちであったが、なぜか順興の前では不思議と鎮まったものであった。また彼には優秀な子が二人もいる。
長男の友隆(ゆうりゅう)は思いやりがあり、兵の中には彼のためなら命をいとわぬという者が多い。戦場での駆け引きも巧妙で、父よりも指揮能力は上だと評価されている。
次男の友徳(ゆうとく)は十六歳の少年ながら、勇猛果敢で、常に先陣を切り、他の者たちを鼓舞させた。槍の名手であり、蒙古軍の名だたる武将を何人も討ち取っている。
多士済々な郭軍の中でも、鈴陶がもっとも頼りにしている男がいた。
それは十夫長の湯和である。
豪胆で、戦の駆け引きも上手であったが、底抜けに明るく、彼の部隊はいつも活気に満ちあふれている。彼の明るさに勝てるのは濠州において鈴陶以外にいないだろう。
こうした有能な武将を鼓舞するには、鈴陶を初めとする女子(おなご)たちがどんなことがあっても明るく振舞わなければならない。
――女子だから出来ることがある。
そう自分に言い聞かせている。限られた食材で美味しい食事を作ることも大事であり、気持よく戦えるために衣服を洗濯しておくなど、女子に出来ることは山ほどある。明るく笑い、城内を走り回るのは彼女の信念に基づくものであった。
この日も鈴陶は洗濯物を抱えるようにして集め、城内を駆け巡る。そんな彼女の耳に妙な噂が入ってきた。
「東門に気味の悪い奴が現れたぞ」
「あの醜悪さは人なのか」
「蒙古には妖術使いがいるらしいが、それではないのか」
「ひょっとすると話に聞く鬼という奴かもしれないぞ」
鈴陶は「鬼」という言葉を聞き、思わず反応してしまった。
三年前。定遠で助けた小鬼のことは昨日のことのように憶えている。
「しかしまた鬼が出るなんて……まさか」
洗濯物を近くの兵舎に置くと、噂をしていた兵士に鬼について訊いてみた。
「東門に鬼が現れたとは、本当ですか?」
兵士は鈴陶だとわかると、はにかみながらうなずいた。
「何でも西方からやって来た妖術使いだそうで。あっしもちらっと見やしたが、恐ろしげな顔でやした」
「ひょっとして……」
鈴陶は少し考えてから、その鬼は僧侶の格好をしていないか尋ねた。兵士はしばらく首を捻っていたが、
「言われてみれば、坊主だったかもしれねえ。けんど髪が伸びていやしたし、あの面は坊主という顔じゃなかったですよ」
だが鈴陶はこの情報で確信することが出来た。
――間違いない。小鬼様だ。
そう思った瞬間、鈴陶は東門へと駆け出していた。兵士はあわてふためき、
「相手は恐ろしい鬼ですぜ。近寄っちゃなんねぇ」
と、叫んで制止したが、彼女の耳に、その言葉が入ることはなかった。
皆にとって恐ろしげな鬼かもしれないが、鈴陶だけはあの小鬼の魅力を知っている。 瞳を輝かせながら鈴陶は東門に急いだ。
ー―たけど……。
相変わらずじっと出来ない自分がどうにも可笑しい。大人になればこの性格が収まるだろうと思っていたが、歳を重ねるごとにひどくなるようであった。人への関心が強く、交わることが楽しくて仕方がない。どんなに義父母に叱られようとも好奇心を抑えることが出来なかった。
鈴陶は足が速く、その走り方は矢が飛んでいるようであった。だが注意散漫でよく人にぶつかる。案の定、この時も大男とぶつかってしまった。驚いて見上げてみると、大木のような湯和が泰然と立っていた。湯和は童女のように走り回っている鈴陶が可笑しく、大笑いしながら手を差し伸べた。
「相変わらず走り回っておりますな」
「光陰矢の如し、と申しますでしょう」
「なるほど。うかうかすれば、あっという間に年増になりますか」
「年増ではありませんよ。まだ十九ですよ」
「いやはや、失言でござったかな」
と、謝りながらも、愉快そうに哄笑し続けた。
鬼が三年前の小鬼であることを確認したい鈴陶は時間を惜しんでいる。今はのんびりと話している場合ではない。あわてている鈴陶を不思議に思った湯和は何を急いでいるのか訊いてみた。
「鬼を見に行くのです」
「鬼?」
湯和は首をひねった。鬼などこの世に存在するはずがない。鈴陶は夢でも見ているのか、と顔をのぞき込んだ。
「私は三年前、定遠で小鬼様とお会いしたのです」
「小鬼?」
「正確に言えば、鬼に間違えられたお坊様だったのですが。托鉢のため定遠に来られた時に、義父様に捕らえられてしまったのです」
「托鉢……鬼と間違えられて?」
湯和は急に難しい顔をしながら腕を組んだ。しばらく考えていると突然大声をあげた。
「お嬢様、そりゃ鬼じゃない。人だ。その鬼はどうなってます?」
「東門で捕らえられ、処刑されそうなの」
「それはいかん」
そう叫ぶと、鈴陶の驚きなど構わず、肩上に彼女を抱き上げた。
「降ろしてッ」
鈴陶は必死に叫んだが、湯和は聞く耳を持たない。そのまま降ろすことなく猛然と東門へと走り出してしまった。走りながら湯和は説明した。
「その鬼は、この湯和が呼び寄せた者ですわい」
「和殿が、呼び寄せた?」
湯和は足を止めることなく、大きくうなずいた。
「三年前の小鬼の名は、朱重八と申しませんでしたか」
「朱重八……言われてみればそのような名前だったような……。あ、そうそう。僧名は覚えています興宗。そう、たしかに興宗と」
「間違いない」
飛び上がらんばかりに喜び、周囲が驚くほど大きな奇声を挙げた。湯和は喜怒哀楽が激しく諸事やかましい。
「それにしても――」
湯和はにたりと笑いながら、肩上の鈴陶の顔を見つめた。
「重八の奴、托鉢の修業などと言いながら、隅に置けん奴だ」
「変なことは言わないで。殺されかけていた小鬼様を助けてあげただけです」
弁解する鈴陶があまりにも必死で、湯和は大笑いした。しかしからかい過ぎたと反省したのか、すぐさま無礼を詫びた。
東門は騒然となっていた。恐ろしげな鬼を一目見ようと、民衆は黒山を作って、殺到していた。そんな野次馬たちを兵たちは必死になって追い返していた。
鬼は東門下の広場に引き出され、張天祐(ちょうてんゆう)に尋問されている。
天祐は小張夫人の弟で、熱狂的な白蓮教(びゃくれんきょう)徒であった。子興と紅巾軍を強く結び付け、軍において重きをなしている。性格は姉とは大きく異なっており、依怙地で、何かと権力を笠にして威張ることが多々あった。そのため軍中での信望は極めて低い。彼の傲慢さは鬼に対する尋問でも顕著であり、尋問を目の当たりにした鈴陶は眉をしかめた。
鈴陶は無類の人間好きである。相手がどんな者でも、見下すこと行為に嫌悪感を抱いてしまう。そのため、この叔父の権柄づくの性格が好きになれなかった。
「和殿、小鬼様をお助け出来ないかしら」
湯和はにこやかに微笑み、うなずいた。すると何を考えたのか、大きな声で、
「俺にも鬼に会わせてくれよッ」
と、叫び出して、制止した兵士の肩を鷲づかみにして後方に放り投げたのである。湯和の怪力は有名で、彼のおかげで命拾いした兵たちは山のようにいる。暴れ出すと誰も止めることが出来ない。湯和を恐れて兵たちは道を開け、鈴陶たちは悠々と鬼のそばまで歩んでいった。
「張将軍。取り調べの最中で悪いのだが、その鬼をわしにくだされ」
「その方、主筋に向かって何たる言い草だ」
と、恫喝したが、天祐如きに畏れる湯和ではない。にやにやと鼻をほじりながら、反論した。
「主筋とは変なことを言うなぁ。わしゃ郭のお頭(子興)にお仕えしているのであって、あんたに仕えたつもりはねぇよ。まあそれでもお頭の義弟ゆえ敬意を表しているが、勘違いはいけねぇな」
穏やかな表情をしているつもりだが、大男の湯和が笑うとそれだけで相手を威嚇する。ましてや小心者の天祐にとってこれほどの恐怖はない。
「張将軍。あんたの命(めい)には従ってやるから、その鬼をわしに呉れよ」
そう言うと白い歯を剥き出しにして、不気味に微笑んだ。さらに天祐が悲鳴を上げるほど力強く、その肩をつかんだ。
――殺される。
そう恐怖した天祐はほうほうの体で逃げ出してしまったのである。
「和殿も案外、意地が悪いのね」
湯和は何のことかかわらぬという顔をしながら、そのくせにやにやしている。
「とにもかくにも鬼ですね」
鈴陶が目を輝かせながら鬼に近づこうとすると、残った兵たちが必死になって押し留めた。湯和ならともかく、お嬢様を鬼に近寄らせてはならない、と彼らも必死であった。
湯和は兵たちの行動を無意味だと思っている。鈴陶ほどの悍馬を兵如きに留められるはずがない。案の定、鈴陶は兵たちの制止など物ともしなかった。ただ喜色を浮かべ、兵を掻き分けながら、ようやく鬼と対面した。
「やっぱり」
子供のように声をあげて、湯和を盛んに手招きした。しかし鈴陶の招きなど関係なく、鬼の顔を見た湯和はこれまた周囲が驚くほどの奇声を上げた。
「やはり重八だったなッ」
「和。お前のせいで坊主が武具を手に取る羽目になった」
だが湯和は、「坊主は似合っていなかったからいいじゃねぇか」と、涙を流して大きく手を振った。やがて重八はその縛めを解かれた。縄を解かれるや、眼を細めながら鈴陶に拱手の礼を取った。
「鈴陶様。朱重八、三年前の約束を守らんがため、馳せ参じました」
「約束?」
「助けていただいたこの命を貴女のために使う、という約束です」
鈴陶はにこやかに微笑み、かぶりを振った。
「そのお気持はありがたいですが、私一人の為ではなく、義父や濠州の者全てのために力を貸してください」
「鈴陶様に差し上げた命です。どのように遣われるかは貴女次第。貴女の望みならば喜んで濠州のため、郭元帥のためにこの身を捧げましょう」
「それにしても、小鬼様はよくよく人に捕まってしまう運命なのですね」
「顔が怪しい、と有無言わさず捕まってしまいました」
鈴陶は弾けるようにして笑い声を上げた。
「和殿」
二人のやりとりを眺めていた湯和に、重八を子興に引き合わせるよう願った。濠州に招いたのは湯和であり、彼が案内するのが妥当であろう。
「ところで鈴陶様はこれからどうなさるのです?」
と尋ねると、鈴陶はあっと声を上げた。騒動に気を取られ、洗濯物を置きっぱなしにしていたことを思い出したのだ。鈴陶はあわてて走り去ってしまった。
「三年前もあのように走り回っておられたが、変わらんな」
「鈴陶様は忙しい。いつも笑い、何かに興味を抱かれて走り回っておられる」
「俺は絶望していた。だが鈴陶様はそんな俺を人として救い出してくれた。不思議なお女(かた)だ」
重八の言葉に湯和も深くうなずいて、大笑いした。
東門での騒動はすでに子興の耳に入っていたらしい。重八が部屋に入るや否や、鋭い眼光を向けてきた。
――相も変わらず堅気の眼でないな。
重八は三年前の時と変わらぬ子興の眼光を思い出していた。これが普通の者であったなら震え上がっているが、重八は泰然として動じない。
「お前は鬼なのか、それとも間者なのか」
天祐あたりが悪しきことを吹き込んだらしく、尋問するかのようであった。
「お頭。こいつはわしの竹馬の友でして……」
と、湯和が説明しようとしたが、子興は一喝した。
「お前との関係など、どうでも良い。わしはこの小僧と話しておるのだ」
そう怒鳴り散らすと湯和を退室させた。
部屋には二人だけが残った。たじろぎ一つしない重八も相当な胆力の持ち主だが、間者かもしれない者と二人きりになる子興も豪胆であった。
両者の間に緊迫感が走る。その間、双方は無言でいた。やがて子興が口を開いた。
「何を探りに来たのだ」
「元帥は間者に必要なことが何か、ご存知でしょうか」
「……敵に気づかれぬよう探ることか」
「仰せの通りです。敵に見つからず、気づかれずに敵状を探るか。そのために必要なのは凡の才です」
「凡の才?」
「人と見分けがつかない才、それが凡です。ところが、これをご覧くださりませ」
重八はにやにや笑いながら、自身の貌(かお)を指差した。
「三年前は定遠で小鬼として捕まり、濠州でもまた鬼として捕縛されてしまいました。このような人目につく間者がどこにおりましょう」
そう言うと、重八はカラカラと笑った。だが子興は笑わなかった。ただ凝視し続ける。
やがて、「三年前」という言葉に反応し、あご髭をしごき始めた。
「三年前、小鬼……。そう言えば、定遠で鬼の小僧を捕まえたことがあるが……」
「思い出されましたか」
「よほどお前は人に捕まる運命にあるようだ」
「先ほどお嬢様にも同じ言葉を頂戴いたしました」
「鈴陶と会ったのか」
「はい。ですが、すぐさまいずこへと走り去ってしまいましたが」
重八が頭をかきながら話すと、子興は苦笑いした。
「あれはいくつになっても落ち着かぬ。三年前も随分と騒いでいた」
子興は困ったようなことを口にしながら、どこかあの騒ぎを懐かしく思っている様子であった。
「お前が間者ではないことはわかった。和の友ならば、あやつと共に働け。日々、蒙古との小競り合いが続いておるゆえ、存分に働けよう」
重八は姿勢を正して拱手した。部屋を去ろうとする重八を子興は呼び止めた。
「お前の名を聞いていなかったな。名は何と申す」
「朱重八、僧名は興宗と申します」
「軍に入った以上は俗世の者だ。今後は重八で通せ」
そう命じると、奥の部屋へと下がっていった。この日より重八は僧の身分を捨て、長い戦いの日々に身を投じることになるのである。
紅巾軍での初仕事は敵情を探ることであった。
顔があまりに目立ち過ぎることを口実に疑いを晴らしたのに、初仕事が間者とは湯和も人が悪い。すると湯和は笑いながらかぶりを振った。
「誰が間者になれ、と言った。お前は餓鬼の頃から物事を見抜く力がある。だから敵情を調べて、お前の見解を聞かせてもらいたい」
否とも応とも言わず、重八は行動に移った。しかし単独では出ず、二人の兵を伴わせて濠州を出た。
その話を聞いた湯和は、
――これしきのこと一人で出来ないのか。
と、正直な所、失望した。しかしそれは湯和の早合点であった。
重八はその日の夕暮には戻ってきて、すぐさま報告を上げた。内容は極めて客観的なもので、主観がふくまれていない。事細やかに兵数、士気の高低、率いる将の器量などが調べられており、敵情が手に取るようにわかった。この報告を許に作戦を実行した所、完全なる勝利を収め、湯和を驚かせた。
さらに湯和を喜ばせたのは重八の人心掌握術であった。重八は勇敢で、かつ粘り強かった。進めと命じられれば一歩一歩確実に進み、守れと命じられれば石にかじりついても守り通すような強さがある。そのような姿勢は他の兵たちに感銘を与え、いつの間にか重八を中心に一丸となって敵に当たっていた。
重八は働き者で、面倒見も良い。そして洞察力と決断力にも優れており、それが彼に人望が集まる理由であるようであった。
ただ個人的武技はと言えば三流以下であった。しかし指揮する者――将にとって武技が一流であることは必ずしも長所とは言えない。劣るからこそ、人の長所がよくわかり、誰よりも認めることが出来るのだ。
――こいつが俺たちの中心にいた理由がようやくわかった。
今さらながらこの痘痕顔の力を湯和は理解し、先の見えないこの乱世に小さな光を見出したように思えた。
――こいつの考えをもっと知りたい。
湯和は戦いが終わったある日、重八に尋ねてみた。
「なぜ探索を一人でしなかった」
「人には必ず偏りがある。そもそも俺は戦の素人だ。そこで戦場に慣れた二人の目を貸してもらった。戦場に慣れた者の目、素人である俺の眼。あらゆる角度で見れば自ずと真の姿が見えてくる。それゆえ彼らに手伝ってもらったのさ」
この答えに湯和は驚いた。湯和は戦うこと久しく、戦場慣れしている。だが重八のような視点を持ったことは一度もない。
――ひょっとすると……。
元帥の子興でさえ及ばない深慮を重八は持っているのではあるまいか。重八の才覚は十夫長、百夫長、いや濠州軍全てを率いる才覚を持っているのかもしれぬ――理屈でなく湯和はそう直感した。重八を稀有なる者と見たが、無垢なる気持ちで認めた湯和もまた一廉の人物であることは間違いなかった。
濠州は狭い。重八の評判は半月も経たないうちに兵たちの間に広がった。人の評価は成果によってなされるものである。
「湯軍の働きが尋常ではない」
以前より湯軍は郭軍の中で際立っていたが、近頃の闊達ぶりは目を見張るものがあった。
諸事合理的であり、それまでの湯軍とは比較にならないほど活発化していた。
紅巾軍で物を言うのは実力である。功を立てればそれだけ地位が向上するため、他軍の良き所を積極的に学ぼうという気風が流れていた。
「どうやら朱重八という男のおかげらしい」
そのような噂が流れた。湯和自身は私利私欲がなく、誰よりも重八を褒め称えた。そのため重八の名が挙がることは自然の成り行きであった。
湯和は十夫長から百夫長へ格上げとなった。同時に重八もまた十夫長に抜擢された。
――どこまで出来るかな?
子興はあの鬼面の男をもっと試したいという欲求にかられるようになった。
十夫長となった重八は間もなく湯和の配下から他軍の百夫長に属された。これは友以外の指揮下でも実力を発揮出来るか、それを試すためのものであった。友でなければ実力が発揮出来なければ偽者と言わざるをえない。
結果は重八の実力は本物であった。彼が付属した部隊は将や兵の特性を引き出され、見違えるような活躍を見せた。子興は大いに満足し、重八を百夫長に昇進させた。重八が軍に身を投じてわずか二ケ月ほどのことである。
百夫長は重八と湯和以外にも幾人かいる。彼らを束ねていたのは邵栄で、重八たちも当然その指揮下に入った。邵栄は温和で、物事を公平に裁くため、将だけでなく、兵たちからも慕われている。また口が重く、悪口も言わなければ軽はずみに人を推挙することもない。そのため子興は、「邵栄の言葉はまさしく季布(きふ)の一諾(いちだく)だ」と言って、彼の言葉を珍重した。
季布とは楚の項羽に仕え、寡黙な武将として著名である。簡単に「諾(うん)」と言わなかったが、彼が承諾したことに間違いがなかった。そのため季布の一諾は値千金と称されたのである。
邵栄はまさに郭軍における季布であった。その彼が重八の働きを認め、子興に重用するよう進言したのである。重八の素質を子興も認めていたが、まさか邵栄の一諾まで引き出そうとは予想していなかった。
子興は邵栄の進言を受け入れ、栄誉ある先鋒に任じた。先鋒は最も優れた百夫長が受け持つ役割で、郭軍の者は皆一様に驚いた。当然、この急速な栄進に不快感を示す者もいたが、重八は彼らを懐柔した。一月もすると、不思議なほど皆、重八になびいてしまっている。
湯和はこの人心掌握を見て、
「鬼の術を心得ているのではないか」
と、半ばからかうようにして感嘆の声を上げた。しかし重八は何食わぬ顔で答えた。
「物事を複雑に考える者は賢人に見えるが、実は愚者に過ぎない。どれだけ物事を簡単にまとめるかが、人と上手く付き合い、人々を動かすコツだ。長を伸ばし、短あれば補う。害を避け、利を共に満たす。このことを心得ていればおのずと人の心は一つになるものだ」
湯和はしきりにうなずき、この幼馴染を呼び寄せたことを誇りに感じるのであった。
二
女性が乱世を生き抜くために必須の能力がある。それは人を見抜く力である。
子興の妻・小張夫人はとりわけその能力に長けていた。子興は頑固で癇癪持ちであったが、義侠心に富み、人望が厚い。また配下の者をやる気にさせる陽気さを持っていたため、有能な部下が彼を支えてくれた。夫人は子興のそうした人格こそ乱世を生き抜く能力だと見ている。
郭軍は挙兵以来、その勢力を伸ばしている。しかしそれはまだ蒙古軍が本格的に始動していないだけで、このままでは持ちこたえることは困難であろう。郭軍が生き残るには杖ともなるべき人材を親族に迎えるべきだと夫人は考えた。
親族となるべき人材はいないか。夫人は日々、しかるべき人物を探し求めていたが容易に見つからない。だが、夫人が惚れ込むべき青年が現れた。
いわずもがな――百夫長となり、かつ郭軍の先鋒に任じられた重八である。重八のことはすでに鈴陶から聞かされていた。
――面白きお方。
夫人は直感で重八に魅力を感じていた。その直感が確信に変わったのはやはり邵栄が重八を先鋒に推挙したという事実を耳にした瞬間からである。
――あの方を手放してはならない。
夫人は固くそのように思い、鈴陶の婿に迎えてはと考えるようになった。
鈴陶は悍馬で、その婿になる男は並大抵では務まらない。鈴陶が夫人の部屋に呼ばれたのは、重八が先鋒に抜擢されて七日目のことであった。
呼び出されたものの、鈴陶はすぐにはやって来ない。相変わらず城内を走り回っているらしい。ようやく現れたのは夕暮れ時であった。鈴陶の顔を見るや、夫人は小言した。
「呼ばれたらすぐに来なさい」
「はあ、ですが」
「ですが、は不要」
と、ぴしゃりと封じ込めてしまった。夫人は鈴陶に椅子を与え、咳払いをして姿勢を正した。鈴陶は改まることが苦手で茶化すようにして用の趣を尋ねた。
「まさか、お小言のために呼ばれたのでは、ありませんよね」
「私も暇ではありません。貴女はいくつになりましたか」
「十九です」
「十九。もう嫁に出してもおかしくはありませんね」
「おかしくない歳ですか?」
「遅いぐらいですよ」
「ひょっとして……嫁ぎ先をお決めになったの?」
「決めてはいませんが、これはというお方がいます」
「どなたなのです?」
夫人は鈴陶を落ち着かせるために、侍女に茶を用意させた。しかし鈴陶は茶には触れず、誰なのかと重ねて尋ねた。
「貴女もよく知っている方よ。先頃先鋒となられました」
「まさか……鬼様ですか?」
「言葉を慎みなさい。朱先鋒は今や、郭家になくてはならぬお方ですよ」
鈴陶は頭を下げたものの、すっかり落ち着きを無くしている。
「朱先鋒では不服ですか。やはり名家か器量佳しの殿御がいいのかしら」
夫人は眼光を鋭くし、あえてそのように尋ねてみた。果たしてこの娘は女としての器はどのようなものなのか。これから彼女が口にする答えで図り知ることが出来よう。もし家柄や器量佳しにとらわれるなら、重八に嫁ぐ資格などない。
「血筋や顔立ちなど取るに足りませんし、血筋などこの乱世でどれほど役に立ちましょう。大事なのは共に人生を築いてくださるかどうか。最初から仕上がった人生などつまらない」
――さすがは鈴陶。よくぞ申しました。
もし鈴陶が幼子であれば抱きしめ、頭をなでてやりたかった。この義娘ならきっと重八と共に子興を援け、乱世を切り抜けてくれるに違いない。夫人は満面に笑みを浮かべながら、子興の許へと急いだ。
この婚姻最大の難関は子興であった。ただでさえ子興は頑固なのである。その上、鈴陶をこよなく愛している。だが子興を説き伏せない限り、この婚礼話は成り立たない。
案の定と言うべきか、話を聞くや否や、子興は猛反対した。
「あいつは得体の知れない乞食坊主だったのだぞ」
まず身分のことで反対をした。だが夫人は一笑に伏した。
「身分にこだわられますか。では鈴陶の婿は蒙古の将軍か貴族にいたしましょうか」
「たわけたことを――」
「ええ。たわけたことです。ですが宋朝が滅びて百年。今の名族と申すは蒙古や色目人のこと。蒙古に兵を挙げられた主殿が申される名家とは何ですか?」
「身分は、身分はともかくだ。あやつの容貌はどうだ。鬼のように醜悪ではないか」
「では婿として大事なるは容貌の良し悪しですか。ならば孫元帥のご子息を婿にお迎えすればよろしいでしょう。孫不疑(そんふぎ)様は美丈夫として名高きお方ですよ」
「そ、孫の倅だと?」
子興は目を剥いて、烈火の如く怒った。そして柄悪くも唾を地面に吐いた。
孫元帥とは子興と共に挙兵した孫徳崖(そんとくがい)のことである。共に挙兵した同志であるが、性格が水と油のように違い、事あるごとに対立していた。近頃では徳崖の名を聞くだけで虫唾が走るほど忌み嫌っている。その徳崖の長子が不疑で、夫人の言うようにその美貌は濠州で右に出る者はいなかった。
「冗談ではない。孫の倅に愛娘を呉れてやれようか」
「お口が悪いこと。では主殿は鈴陶を誰に嫁がせれば良いとお思いなのですか」
「いや、その……。だがな、あの娘はまだ十九じゃないか。そう急がずとも」
「もう十九です。ぐずぐずしていれば嫁ぎ先が無くなってしまいましょう。それに朱先鋒は天下に二人といない逸材ですよ。あの方に勝る方などそうはおりませぬ」
子興にはどうして夫人がここまで重八に入れ込んでいるのか、わからなかった。しかし夫人の情熱はただならぬものがあり、子興は圧倒されている。
「もう一つ理由があるのです。鈴陶の気性です。あの娘は悍馬。鈴陶を御す方は並大抵ではありません。私はつぶさに朱先鋒を見てまいりましたが、この先、主殿を支えるはあの方をおいて他にはないと思います。よくよくご思案ください」
子興は思い悩んだ。妻の言う通り、鈴陶のような跳ね返りの婿は常人では務まるまい。また重八が非凡な青年であることは、子興が誰よりも認めている。重八を自軍に引き止めるには婿に迎えることが一番であった。
随分と悩んだが、やがて子興は目を開き、無言でうなずいた。夫人は手を打って喜んだ。すぐさま部屋を飛び出し、鈴陶の許へと走り出した。一人部屋に残った子興は虚空を見つめ、複雑な気分となっていた。
「待ってください、義母様」
さすがの鈴陶も驚き、戸惑った。
婚姻は一生の大事である。いくら楽天家の鈴陶でも簡単に婚姻話を進められてはたまったものではない。
「せめて一晩、考えさせてください」
これが鈴陶に出来る精一杯の返事であった。夫人もいささか性急であったと思い、この申し出を承諾してやった。夫人は聡明であったが、鈴陶同様に思い立てば即行動する女性である。鈴陶の性格は先天的なものではなく、あるいは夫人の教育による後天的なものであったのかもしれない。
鈴陶は考えた。朱重八という男(ひと)のことを。
――面白き方であるのは間違いない。
素直に思う。
三年前。子供じみた冒険心からであったが、彼に魅力を感じなければ、助けようとは思わなかった。再会した重八は人格に深みが増し、郭軍の人々をも魅了させた。また人を見ることに長けている義母がここまで惚れ込んだことでも彼の素晴らしさが証明されているではないか。
――あの瞳が良い。
鈴陶はあの瞳が気に入っている。重八の瞳は何物にも動じない強さがある。また物事の本質を看破し、人々をあるべき所に導くような強さを秘めているように思えた。
彼となら面白い人生を築いていけるのではないか――そう思える一方で不安もある。
だがこのような悩みは何も鈴陶一人だけのものではない。誰しも婚姻を前にして迷ってしまうのが自然なのだ。だが鈴陶はじっと思い悩める女ではない。
――お会いして話をしよう。
思い立つと矢も盾もたまらなくなる性分である。気がつけば部屋を飛び出し、重八が宿泊している寺院へと駆け出していた。
先鋒となった重八には執務室がある。古びているが立派な寺院の宿坊一棟が執務室として与えられていた。郭家は濠州の治所である知府邸にあり、重八の宿坊は十軒隣にある。その宿坊に鈴陶は向かった。
――三年前の方が難しかったな。
相変わらず彼女は邸を抜け出す天才であった。人目を盗み、易々と重八の宿坊に忍び込むことが出来たのだ。
――それにしても……。
鈴陶は自分のことを棚に置き、重八の無用心さに呆れた。夜も更け、重八は就寝しているかと思いきや、まだ灯りが消えていない。それどころか随分と賑やかな声が聞こえてきた。
――あの声は和殿。
湯和は身体だけでなく声も大きい。聞きようによっては湯和一人が騒いでいるように思えるほどであった。
――どうしよう……。
この期に及んで鈴陶は迷った。鼓動だけが高まり、金縛りにあったように指一本動かせない。何のために来たの ――鈴陶は己を叱咤したが、どうにも身体が言うことを聞いてくれない。しかしこの戸惑いも彼女の行動力には勝てなかった。
――えい、ままよッ。
勢いをつけて、そのまま部屋に飛び込んだ。
鈴陶の突然の来訪に皆は驚いた。元帥の義娘がこのような夜更けに忍び込んでくるなど常識では考えられないからだ。湯和たちは唖然としていたが、重八はにこりと微笑んだ。
「三年前のように――」
杯を机上に置くと、ゆっくりと立ち上がり、大きく両腕を広げた。
「捕まってはいませんよ」
からかうようにして語りかけられ、鈴陶は赤面した。
「こ、今宵は助けに参ったのではありませんもの」
「では郭家のご令嬢がかような刻限に何用ですか」
湯和たちはただならぬ状況に固唾を呑んだが、やがて互いに目配せをして静かに部屋を去っていった。
部屋にこだまするは二人の息遣いのみであった。
重八の息吹はどこまでも穏やかで、鈴陶の息遣いのみが乱れている。
――情けない。
鈴陶はここまで来て何も言い出せないでいる自分に切歯扼腕した。
重八はと言うと、この面白き娘が何をするつもりなのか、その動向を興味深く眺めている。やがて鈴陶は絞り出すようにして言葉を発した。
「お、お酒をください」
我ながら何を言っているのだ、と鈴陶は泣き出したかった。どこの世界にわざわざ酒を無心するために男の部屋に忍び込む女がいるものか。重八は一瞬、唖然としたが、耳盃(じはい)(木製の盃)を用意し、酒を注いでやった。鈴陶は顔を真っ赤にしながら、それを一気に飲み干した。
「お見事」
重八は手を叩いて、豪快な呑みっぷりを褒め称えた。鈴陶にしてみればとんだ面の皮であった。
「鈴陶様は……」
重八は自分の盃に酒を注ぎながら尋ねた。
「相当、酒がお好きなのですな」
わざとからかっているのか、それともとんでもない鈍感であるのか。恐らく後者であろうが、重八は実に間抜けな質問に鈴陶は腹を立てた。
「どうしてもお聞きしたいことがあって、ここに参ったのです」
重八は首をかしげた。
「私に……この鈴陶に縁談が参っているのです」
「ほう、縁談」
重八は驚き、そして喜色を浮かべた。何と目出度い話なのか、と即座に祝賀を述べた。
その瞬間、鈴陶の表情は凍りついた。そしてすぐさま血が上ったのか、体中に熱が篭る感覚を覚えた。
――よくも。
この痘痕顔殿は乙女心を傷つけてくれた――何とも理不尽であるが鈴陶の胸は煮えくり返った。
「そんなに重八様は嬉しいのですか」
「目出度き話ではないのですか」
この言葉はさらに鈴陶の心を逆撫でした。悔しさと悲しみが同時に襲い、目から止めどなく涙があふれる。
「鈴陶様、どうなされたのです?」
重八は狼狽した。いきなりやって来て酒を所望したかと思えば、涙まで流す。重八でなくとも誰でも困惑してしまうのが道理である。この時の重八ほど間抜けな顔をした者はいない――晩年に至るまで鈴陶はこの時を思い出しては苦笑しつつも、重八が憎く思えて仕方がなかった。
――殴ってやろうか。
発作のように鈴陶は思った。重八に対する怒りと言うより、このような愚かな男に対し、真剣になっている自分が何よりも許せなかった。だが、重八にとってこの怒りほど理不尽なものはなかった。まさか自分と鈴陶との間に婚姻話が持ち上がっていようなどとは夢にも思っていなかったからだ。
好感情はたしかにある。だが彼女を妻に出来るなどと考えもしなかった。
相手は郭元帥の愛娘であり、自分はと言えば先日まで乞食坊主をしていたどうしようもない浮浪児である。そんな二人の間に縁談が持ち上がっていることを想像するほど重八は楽天家でもなければ夢想家でもない。
だがそんな事情などは鈴陶にはどうでも良いことであった。ただ彼が鈍感であることが何よりも重き罪であり、この際、理屈などどうでも良かった。
「もう結構」
鈴陶は力任せに耳盃を地面に叩きつけ、粉砕した。
「何を怒っておいでです?」
「まだわからないのですか」
鈴陶は涙ながらに訊いたが、まだ重八にはわからない。
「かような間抜けな方との縁談を悩んでいたとは、鈴陶一生の不覚。鬼様は間抜け面をしながら、一人お酒を飲んでいたら良いのです」
そう言い放つと、鈴陶は部屋を飛び出してしまった。
――何のことだ?
一人残された重八は呆然とした。未だ鈴陶が何の話をしていたのかまるでわからない。
虚空を見つめながら、話を整理しようとした。
「俺との縁談……誰と……俺と鈴陶様、俺と鈴陶様の縁談?」
重八は混乱した。これは夢か、はたまた性質の悪い冗談なのか。何度もほおをつねったが、どうやら夢でなく現実であった。何のことがさっぱりわからぬ――そんな想いを抱きながら、その夜、重八は一睡も出来なかった。
三
一夜が過ぎ去った。
朱重八が馬鈴陶を娶り、郭家の婿となる――。
この噂はあっという間に濠州中を駆け巡った。
湯和は何事においても気が早い。祝い事が大好きで、朝から祝い酒を携えて重八の許へ訪れた。そして重八の顔を見るや、
「公子(こうし)」
と、呼んだ。
公子とは婿の敬称で、鈴陶と夫婦になれば、そう呼ばれることになる。しかし当の本人は終始不機嫌で、公子と呼ぶ湯和をにらみすえた。
――人を馬鹿にするにも程がある。
重八にすれば何とも不愉快な話であった。当の本人は何も知らされず、婚姻という一生の大事を勝手に進めた郭家の人間が腹立たしかった。そもそもあの鈴陶の態度は何なのか。突然現れ、言いたい放題雑言を吐いて、勝手に帰っていく。考えれば考えるほど腹立たしかった。
そんな重八に子興から呼び出しがあったのは、正午であった。
用件は言うまでもなく婚姻の話で、子興から持ち出された。しかし重八は仏頂面で、ろくに子興の顔を見ようとしない。かたわらにいた邵栄は見兼ねて、
「朱先鋒、元帥に対して無礼だぞ」
と、たしなめたが、重八は意にも介さない。
「それがしと鈴陶様の婚儀のお話ですが」
「おう。そうなのじゃが」
子興はあまりに重八が不機嫌なため、やや媚びるように笑みを浮かべた。邵栄は助け舟を出すべく、話を続けた。
「元帥にあらせられては、貴殿を郭家の婿に迎え、濠州の柱石となることを熱望されている。貴殿にとってありがたい話だと思うのだが、いかがかな?」
温和な笑みを浮かべながら、邵栄は重八に婚姻を受けるかどうか尋ねた。当然「可」と返事があるものだと思っていたのだが、意外な言葉が重八の口から発せられた。
「お断りいたします」
と、にべもなく固辞してしまったのだ。
子興は口を開けて呆然自失し、邵栄は顔を真っ赤にして気色ばんだ。やがて子興はわなわなと身体を震わせながら、部屋を飛び出そうとした。
その瞬間、奥から鈴陶を伴った夫人が足早に現れ、子興を押し止めた。そして入室するや、深々と重八に頭を下げ、昨夜の無礼を詫びた。
「娘の愚行、お許しください。貴方様の気持を確かめたかったとは言え、許されざる行為でござります。朱先鋒のお怒りはもっともなこと――」
重八は驚いた。元帥夫人ともあろう人がこのように頭を下げるなどあってはならない。重八はあわてて面を上げるよう願ったが、夫人はひたすら謝り続けた。
「朱先鋒を愚娘の婿にと熱望したのは、この私にござります」
「奥方様が?」
「はい。朱先鋒こそ郭家と鈴陶を託すに相応しいお方はいないと、思い定めました。しかしこの愚かな母の願いが娘を困惑させ、貴方様に不快な思いをさせてしまうとは何たる不始末。この話、お忘れいただきますよう、お願いいたします」
夫人はさらに膝間つくと、身を震わせて涙を流してしまった。
重八はまたしても困惑した。どのようにこの場を過ごせば良いのか、わかるはずもなかった。困惑する重八に追い討ちをかけたのは鈴陶であった。今度は鈴陶までも床に膝間つき、深々と頭を下げたのである。
「今度は鈴陶様ですか」
「一番悪いのは私なのですから……」
重八はこれまで様々な困難を舐め尽くし、そして立ち向かってきた。だがこの時ほど困り果てたことはなかった。重八は乱れた呼吸を整え、そして目を閉じた。やがて大きく息をつき、両人に拱手の礼を取った。
「お二人とも、どうか頭をお上げください。この重八をこれ以上苦しめないでいただきたい」
二人はようやく頭を上げてくれた。重八は苦笑しながら、膝をついた。
「重八様」
真剣な面持ちで鈴陶は尋ねる。
「この鈴陶のこと、お嫌いなのでしょうか。それとも……」
重八はしばらくうつむき、考え込んだ。やがて顔を上げると、晴れ晴れとした顔つきで答えた。
「鈴陶様は面白い」
「それは好きなのですか、嫌いなのですか」
「ですから面白いのです。そうとしか言いようがない」
意趣返しというわけではあるまいが、重八は意地悪く笑みを浮かべた。
鈴陶にすればからかわれているようで面白くなく、ほおを膨らませた。しかし夫人は鈴陶を手で制した。
「朱先鋒は娘を嫁に貰ってくださるのですね」
この問いに、重八はにこやかに、そして力強くうなずいた。
鈴陶は重八を鈍感だと怒ったが、彼女も中々のものであったろう。このやりとりだけでは納得がいかずに、重八に詰め寄った。どうにか重八の口から自分を好きだと言わせたかったのだ。
ついに好きとも嫌いとも答えなかったが、代わりに重八はこう答えた。
「三年前、私は鬼として生涯を終えるところでした。しかし鈴陶様に一命を救われ、人として生き延びることが出来ました。士は己を知る者のために死す、と申します。かような――」
重八は言葉を止めると、弾けるようにして笑った。
「かような面白き女人と人生を歩むとなれば心が弾むというもの。人として鈴陶様と生きていきたい。これが私の返事です」
重八は真剣な表情をし、姿勢を正して再び拱手した。
好きという言葉はもらえなかった。だがこの言葉に鈴陶は心をときめかせた。胸にそっと手を当て、笑みと涙が混濁した表情となり、何度も何度もうなずいた。
この二人の様子を見てようやく夫人は安堵し、にこやかに微笑んだ。
子興はと言うと喜んでいいのやら、寂しく思えばいいのかわからず複雑な表情をしている。
「主殿」
夫人は子供をあやすような手つきで、子興を椅子から立たせた。そして共に新たな婿殿に礼を述べた。邵栄もこの慶事を心から祝い、声高らかに、「大慶」と、連呼してくれた。
こうして朱重八と馬鈴陶は目出度く縁が結ばれた。郭軍ではこの婚礼を祝福し、三日三晩、盛大な宴を張った。
郭家の婿となった以上、重八といった土民じみた名では格好がつかない。そこで子興はこれを機に新たな名と字を贈ることにした。
名は朱元璋(しゅげんしょう)。
璋とは模様の入った玉を意味する。字は国瑞(こくずい)とされた。
「朱元璋、国瑞……」
重八改め、朱元璋は何度も新たな名と字をつぶやいた。
生まれ変わったような、何とも爽やかな気分であった。時代はさらに混沌としており、一寸先も見えなくなっている。
新たな名、新たな字、そして新妻・鈴陶。
妻と共にどこまでも生き抜いてやろう――。元璋は蒼天に向かって誓うのであった。