朱元璋 第三話「賽(ポロ)は振られた 」

   賽(ポロ)は振られた

   一

 濠州府鐘離(ごうしゅうふしょうり)。
 裕福とは言えないが貧しくもない。平穏であれば充分民を養っていける土地であった。
 その鐘離がここ数年、飢餓に苦しみ続けている。
 鐘離には皇覚寺(こうかくじ)という名刹がある。多くの信者がおり、裕福な寺として有名であった。しかし至正年間の飢饉によって信者が激減し、その存続が危うくなっていた。
 朱重八はこの皇覚寺で出家した。だが疲弊していた寺が重八たちを養うことが出来ずに托鉢の修業と称して放逐してしまったのであった。
 重八は行くあてもなく各地を転々とした。ただ食を求めて西に、東へと漂ったが、世は流浪の旅すら出来ないほど乱れてしまっている。成す術をなくした重八が帰郷したのは、いわば死に場所を求めてのことであった。
 ――人が……いない。
 飢饉のために村人が逃散または餓死しており、人の往来が驚くほど少なかった。とにかく活気というものがなく、閑散とした空気が漂っている。
 重八は立ちすくんだが、呆然としているわけにもいかない。まずは劉家に赴こうと考えた。劉家とは鐘離の富裕な地主である。朱家は祖父の代から小作として働き、命を繋いできた。
 その劉邸の裏山に父母と長兄の墓が建てられている。
 建てられている、というより裏山の斜面に埋められているという表現が正しかった。帰郷の報告も兼ねて墓参りをしようと重八は考えたのだ。暗く沈んだ表情で歩いていると、素っ頓狂な声が重八を呼び止めた。
「重八兄ぃじゃないか」
 驚いて振り返ると、栗のような顔をした周徳興(しゅうとくこう)が立っていた。
「しぶとく生き残っていたか」
「しぶとく、とはひどいな」
 徳興は嬉しげに笑った。
 徳興は重八の弟分で、一緒に遊び回っていた幼馴染であった。よく笑う男で、誰も泣いた顔を見たことがない。
「いつ戻ったんだ」
「今だ。まずは劉家に行く」
 その言葉を聞くや、徳興は顔を曇らせた。幼馴染であるため、重八のことは何でも知っている。なぜ僧になったのか。どうして鐘離を出たのかも全て承知していた。彼もまた家族を飢饉で失い、今は一人身でいる。
 劉邸の裏山にたどり着くと、重八は墓前に供えるための花を摘み始めた。斜面には次兄と彫った粗末な木の墓碑が立っており、撫でるようにして土をはらった。
 やがて手を合わせ、読経を上げた。
「おっ父、おっ母、兄ちゃん。今帰った」
 重八は微笑し、目をつむった。
 こうして墓前にいると、あの日のことが昨日のように思い出される。
 蒸し暑く、涙に暮れたあの夏の日――。そう父母たちが死んだあの日のことを。
 ――ひでぇ話さ。
 あの日のことは今でも夢にうなされ、思い出すと涙があふれてしまう。
 四年前、鐘離に飢饉と疫病が襲った。その疫病は父母と長兄の命を容赦なく奪い去ってしまった。少年であり、財も力もなかった次兄と重八になす術などあるはずもなく、ただ泣くしかない。しかし悲しんでばかりもいられなかった。父母たちの亡骸をそのままにしておけず、埋葬しなければならなかったからだ。
「どこに埋めればいいんだ」
 重八たちは戸惑った。そんな兄弟を憐れんだのは隣に住む汪(おう)婆さんであった。
「劉家に頼めば良い」
 そのように教えてくれたのだ。だが力無き者に世の人々は優しくはない。地主の劉継)徳(りゅうけいとく)に頼み込んだが、にべもなく断られてしまった。それでも涙を流し、すがっていると継徳の兄・継祖(けいそ)は朱兄弟に同情を寄せてくれた。山の斜面ならば、と言うことで、ようやくにして重八と次兄は父母たちを埋葬することが出来たのである。気弱で無垢な性格の次兄は感涙したが、重八は、
 ――斜面に墓を作れなどと。
 と、墓一つままにならない自身が情けなくて仕方がなく、内心悔し涙を流していた。だが贅沢は言っておられず、次兄と一緒に懸命に父母たちを埋葬する他なかった。
「……あの時はみじめだった」
 重八は寂しげな目をしながら、呟くように徳興に語った。 
 世の理不尽と言うべきか、不幸は重ねて身を襲う。埋葬を終え、一休みしている兄弟を襲ったのは突然の夕立であった。夕立は重八兄弟の不幸をあざ笑うが如く降り続け、無残にも遺体を流し去ってしまったのである。
 兄弟は狂乱した。恥も外聞も忘れ、泣き叫びながら父母と長兄を探しに探し続けた。
 ようやく見つけたのは夜半になってからで、父母たちの遺骸はまるで泥人形のようになっており、不幸も極まれば滑稽でしかないことを重八少年は思い知らされた。
 二人は涙を流し続けながら深く穴を掘り続け、埋葬を終えたのは明け方であった。
「昔、汪婆さんが前世で悪さをすれば現世で報いを受けるって言っていた。それじゃあ、俺は前世で相当悪さをしたのかな。それともおっ父たちが前世で人に恨まれることをしたのだろうか」
 乾いた笑い声を上げ、首を傾げた。徳興も釣られて嘲笑した。
「と言うことはだ、兄ぃ。鐘離に住む奴らは皆、前世でひどいことをしたんだ。鐘離あげての悪さ……相当なもんだ」
 もし誰も前世で悪行をせず、現世でこのような仕打ちを受けているとすれば、神や仏はろくでもない連中だということになるだろう。
 墓参りを終え、重八は徳興に尋ねた。
「重六(じゅうろく)(次兄)兄さんは息災なのだろうか」
 この問いに徳興は顔を強張らせ答えなかった。
「……そうか。もういないんだな……」
 そうつぶやくと、静かに眼を閉じた。だが、重八は泣かなかった。いや、泣けなかったのだ。あまりにも深すぎる悲しみは涙すらも奪ってしまう。なぜ、力なき我らにこのような過酷な運命が押し寄せるのか。埒もないことだとわかってはいたが、徳興はただ天を恨む他なかった。
 二人の周囲に意味もなく時が流れる。重く、暗く、そして冷たい時が延々と。
 重八は呆けたように薄汚れた墓碑を眺めていたが、やがて重い足を引きずりながら無言で山を降りていった。
「そうだ」
 徳興はこの重苦しい雰囲気を一変させようと皇覚寺のことを話題にした。
「和尚は相変わらず息災だよ」
「和尚……。高彬(こうひん)和尚のことか?」
「ああ。高彬和尚だ。まだ寺にいる」
 重八は驚いた。皇覚寺の住持・高彬和尚は齢七十を越えている。そのような老齢でこの乱世を生き延びていようとは夢にも思わなかったからだ。
 ――追い出された時は随分恨んだものだが……。
 そんな和尚でも会いたいと思えるのだから、人間とは他者との関わりを求めてしまう性があるのだと重八は思い知るのである。
「徳興よ。俺は寺へ戻ってみる。しばらく滞在するつもりだから、遊びに来い」
 この言葉に徳興は犬のように無邪気に喜んだ。
「じゃあ、雲(うん)や良(りょう)の奴も呼んでくるよ」
 その言葉に重八はかぶりを振った。
「和尚の口やかましさを忘れたのか」
「大丈夫さ。この三年間ですっかり呆けちまっているからさ」
 徳興はそう言うとカラカラ笑った。重八はなおも制止しようとしたが、すでに走り去ってしまっていた。
 ちなみに雲とは花雲(かうん)、良とは呉良(ごりょう)のことで、二人とも重八の幼馴染である。徳興もそうであったが、三年経っても相変わらず悪たれであるようであった。

 村の状態であるが、その荒廃ぶりはとにかくひどい。それに比例して寺の状態もまた目を覆わんばかりのものであった。かつて天子が宿泊したほどの名刹で、常に百人以上の僧侶が起居していたと重八は聞いている。重八の幼少時は父母に手を引かれてよく参詣したものであった。
 ――変われば変わるものだ。
 寺の荒廃を見ていると、自然と目頭が熱くなる。本堂に入ると、本尊が無造作に床に転がっていた。
「流罪三千里に処す、か」
 そうつぶやくと、重八は苦笑いした。
 寺を追い出される前日。重八は怒りに任せて本尊を蹴り倒したことがあった。そして罰当たりにも、「流罪三千里に処す」と書いた紙を額に打ち込んでやったのである。兄弟子たちは驚き、血相を変えて制止した。しかし重八は憤然として言い放った。
「仏に力があるなら罰でも何でも当ててみせるが良い。だがその前に苦しみあえぐ皆を助けてみせろ。仏としての役目を怠り、安穏と過ごしている者が偉そうにするなッ」
 兄弟子たちは仏罰を恐れ、ひたすら読経した。
 だが重八は恐れなかった。本尊の額をさらに蹴飛ばし、飛び出すようにして寺を後にしたのである。
 あれから三年。寺は荒れ、本尊は本堂の床に転がったままだ。重八は本尊を抱き起し、元の場所に戻してやった。そしてすすを払い、本尊に語りかけた。
「相変わらず仏としての任を果たしておらぬようだな。粗末に扱われて悔しくはないか。悔しければ今すぐこの世を正してみせろ。そして俺に仏罰を当ててみせろ。この役立たずめ」
 本尊の額を小突くと、重八の両眼から涙があふれ出た。
 重八はただただ涙を流し、嗚咽したが、本尊は黙したまま何も応えようとしない。本堂には獣が唸るような重八の泣き声が虚しく響いた。
 そんな重八に弱々しくはあるが、叱りつける声があった。
「悪たれよ。御仏を何と心得るか」
 重八が振り向くと、そこには和尚が震えながら立っていた。歳のせいもあったろうが、痩せ細り、骨と皮だけのようになっている。
「よく戻ったの」
「和尚様もお変わりなく」
「世辞はよせ。すっかり老いさらばえてしまった」
 和尚は身体を震わせながら微笑した。重八は静かにかぶりを振った。
「老いさらばえたなど……。ですが……」
「ん?」
「菩薩様のように穏やかになられた」
「たわけが。畏れ多いことを申すな。まあ、わしの部屋へ参るが良い」
 和尚は相好を崩しながら、自室へと重八を招いた。
 和尚には昔のような覇気は全くない。だが不思議なことに何か達観したような神秘的な雰囲気が漂っている。その雰囲気が重八には菩薩のように思えて仕方がなかった。
 その夜、和尚はわずかながらだが粟粥を振舞ってくれた。白湯のようであったが、ろくに食事を摂っていなかった重八はむさぼるようにして腹に掻き込んだ。だがやはり寺には世話になれぬと痛感し、村で托鉢するしかないと思い定めるのであった。

   二

 翌日から重八は鐘離にて托鉢をした。
 しかし寺にすらろくな食べ物がないのである。村にあるはずがない。やむなく重八は山に入った。木の実を探し、川で魚を釣るなどして餓えを凌いだ。
 徳興たちが寺を訪れたのは二日後のことであった。約束通り、花雲と呉良を連れてやって来た。
 花雲は重八の顔を見るや、飛びつくようにして抱きしめた。相変わらずの馬鹿力で、重八は悲鳴を挙げたが、花雲は気にも留めずに懐から賽(ポロ)を取り出した。
 この花雲だが、仲間内で「黒雲(こくうん)」と呼ばれている。なるほど肌は色黒く、積雨雲(入道雲)のような大男であった。無類の博打好きで、いつも懐に賽を忍ばせ、機会を見つけては何かを賭けて楽しんだ。
「久しぶりに会ったんだ。賭けだ、賭けをしよう」
 花雲は辺りを物色し、ひび割れた茶碗を拾ってきた。その茶碗に賽を入れてコロコロと音を鳴らした。
「黒雲よ。俺は坊主だぞ。会うなり賭け事はないだろう」
「生きるか死ぬか、人間やっていること自体が賭けみたいなもんだ。人生に比べればこんな小さな賭けは賭けなんかじゃねえよ」
「相変わらずだな」
 と、呆れながら苦笑した。しかしさすがに寺の中ではまずいと考え、境内の外にある大木の下に移動することにした。
「さて、何を賭けようか」
 呉良も花雲に負けないほどの博打好きで、嬉しそうな顔をしながら皆の顔を見回した。
 花雲は腰にぶら下げていた袋を開き、牛肉の固まりを差し出した。
「俺は肉を出そう。良は何を賭ける」
「俺は……そうだな、酒だ。酒を賭けよう。徳興は何だ?」
「俺は面白い奴を紹介する」
「面白い奴?」
「俺は三年間、色んな奴と知り合った。その中でも飛びきり面白い奴がいる。もし賭けに負けたら、そいつを紹介してやる」
 三人は唖然とし、やがて抱腹しながら大笑いした。人を紹介することを賭けの対象にする奴など今まで聞いたことがない。
「最後は重八兄ぃだな。兄ぃは何を賭ける」
「俺には何もないぞ。せいぜい山で採った木の実ぐらいだ」
 そう言って托鉢で得た物を出そうとすると、花雲は大きく手を振った。
「冗談じゃない。そんなしけた物は要らねえよ。それよりも、この三年間、あちこちを回ったんだ。その時の話を聞かせてくれればそれで良い」
「ろくな話がないぞ」
「ろくな話かどうかは俺たちが決める。重八が気にすることじゃねえ」
 そう哄笑すると、上機嫌で賽を振った。
 結局、花雲たちは勝ち負けなどどうでも良かった。花雲と呉良の勝ちであったが、花雲は肉を切り分け、呉良は酒を皆に振舞ったのである。
「徳興よ。面白い奴、って誰のことだ。早く教えろよ」
 徳興は酒を口に流し込みながら、旨そうに肉をほおばった。
「兄ぃは憶えているかな。徐家に達って奴がいたろう」
「徐達(じょたつ)……四六時中本ばかり読んでいた、あの達か」
「ああ、その達だ。小さいくせにやたらと喧嘩が強かった」
「その達が面白い奴なのか」
「そうさ。昔から面白い奴だったけど、妙な事をやっている。見どころのある奴を紹介すれば、無料(ただ)酒を呉れるんだ」
「さては俺たちをだしに使って酒を飲みたいだけだろうッ」
 徳興は笑ってごまかそうとしたが、どうやら図星らしい。重八は呆れたものの、徐達とは久しぶりに会ってみたいと思った。
「徳興。明日、達はいるかな」
「よく留守にするからな。わかんねえ」
「いい加減な紹介だな。まあ、良いさ。どうせ暇だ。托鉢がてら行ってみることにしよう」
 そう言うと、徳興が飲もうとしていた杯を奪い取り、一気に飲み干してやった。

 皇覚寺より北に十里。沼沢の畔にある家に徐達は一人細々と田を耕して生活をしている。
 その昔、重八は冒険と称しては、遠方まで遊びに行った。その時に出会ったのが徐達で、その頃から一風変わっていた。とにかく読書が好きで、暇さえあれば何かを読んでいる。また嫌がる徳興たちを相手に兵法を講義したものだった。
 小柄のためか、力はない。しかし敏捷であり、誰よりも負けん気が強い少年であった。
 仲間に湯和(とうわ)という大柄な少年がいる。
ある日、徐達と湯和は大喧嘩したが、徐達は一歩も退かず、ついには湯和を負かせてしまった。
 その徐達とは十五年会っていないが、どのような青年に成長しているのか、重八は楽しみでならない。
 寺を出たのは夜明け前で、徐家にたどり着いたのは正午であった。近隣の農民に尋ねてみるとどうやら、徐達は在宅しているらしい。徐家へ続く沼沢の橋だが、手製のためかひどく粗雑で今にも壊れそうであった。足許を確かめなければ、いつ沼に落ちてしまうかわからない。ようやくにして徐家に着くや、門戸を叩いた。だが一向に返事がない。
 ――留守だったかな。
 重八はしばらく腕を組んでたたずんでいたが、やがて諦めて身を翻そうとした。すると戸内から独り言が聞こえてきた。
 ――何だ。いるではないか。
 重八はため息をつきながら門戸を開けると、その散らかりように驚いた。
 ――獺祭(だっさい)とはこのことだ。
 獺祭とは川獺が天に供え物をしているかのように巣において魚を雑多に並べる様子のことを指す。この川獺の習性のように書物を散らかしている様子のことを「獺祭」と表現された。
 徐達の部屋はまさに獺祭と言って良いほど書状が床一面に散りばめられている。その部屋の真ん中に青年が一人、黙然と座禅を組んでいた。
「足の踏み場がありますまい」
 青年はくすくす笑いながら拱手した。重八も笠を取って挨拶しようとしたが、青年は手で制した。
「朱重八さんですね。久しくお会いしておりませなんだ。徐天徳(じょてんとく)です」
「天徳?」
 重八は聞き慣れぬ名に戸惑った。青年――徐達は微笑しながら「字(あざな)ですよ」と説明した。
 ――字とは士大夫(したいふ)気取りだな。
 そう思うと重八は妙に可笑しかった。
 下層階級である重八たちは排行(はいこう)という個人を特定するためだけの名しか持たない。たとえば朱家の同世代で八番目に産まれると朱重八または朱八と名付けられる。諱(いみな)や字は身分ある者が名乗るもので、徐達は字などを名乗れる身分ではない。
 しかし徐達は自らを士だと想定し、勝手に字を考え名乗っているのである。その気概は良いが、背伸びをしているようでどこか滑稽味があった。
 重八は僧らしく合掌し、徐達に挨拶した。それからわざと、
「達、息災であったか」
 と、字で呼んでやらなかった。
 重八は徐達の人間性を見るために、あえて相手の意に反してやったのだ。そんな思惑を知ってかどうか、徐達は怒りも惑うことなく温和な笑みを浮かべながら、座るよう促した。
「礼無き奴だと思ったろう」
 徐達は首をかしげながら、静かにかぶりを振った。
「世に慇懃無礼というものがあります。いかに言葉を飾ろうとも侮れば必ず相手に伝わるもの。重八さんは昔より口汚い方でしたが、一度たりとも人を侮るようなことを申されたことがない」
 そう言うと徐達は白湯を差し出した。
 ――こいつは中々強かだ。
 白湯をすすりながら苦笑いした。
 重八は意地が悪い。だがこの徐達も中々のもので、重八は口汚い方だから仕方が無いとやり返したのである。
「人には時というものがあります。いつの日か、重八さんが私を士としてお認めになれば、その時、字で呼んでいただければ良いのです。ですが――」
「何だ」
「人が何と言おうとも私は私を士と思っています。誰にもとやかく申させませぬ」
 この気概に満ちた言葉に、重八は大笑いした。法螺であろうがここまで言い切るとは何と痛快な奴であろうか――重八は改めて徐達という男が好きになった。
「三年……旅をされたのですね」
 徐達は書状の山から一枚の大地図を引っ張り出した。見れば江南一帯の地図で、重八は放浪した地域を指でなぞらえた。
「とても旅と呼べるようなものではなかった。ただ西に東に食い物を求めて放浪していただけだ」
「ですが、重八さんには目も鼻も、そして足をお持ちです。何を見、何を聞き、そして何を感じられましたか」
 徐達は炒ったひまわりの種を差し出し、尋ねた。徐達はどのような人の話でも全身で受け止めるようにして聞く癖がある。この時も深く眼を閉じて重八の話に耳をかたむけた。
「江南の地には主がいない、そう感じたな。皆は天から艱難(かんなん)辛苦(しんく)が降り注いだように思っているが、そうではない。上に立つ者が何もせず、ただ人々から物を奪い去っている。豊かな地もあったが、収穫を終えるとその地はなぜか飢えに苦しむ。だが官吏どもが飢えに苦しむ姿など見たことがなかった」
 徐達は腕を組み、長考した後、懐から一通の書状を取り出した。そして重八に手渡した。
「これは?」
「よくご存じの方の書状です」
 首をかしげながら開いてみると、懐かしい名前が記されている。
「和の野郎だ」
 重八は思わず歓喜の声を上げた。和とは重八の親友であり、徐達と大喧嘩をしたことのある大男の湯和であった。
「相変わらず汚い字だな」
 昔から悪字であったが、今も変わらないらしい。まるでミミズが這いまわったような筆跡である。重八は懐かしく読み進めたが、書いてある内容に驚きの色を見せた。
「和の奴、紅巾軍にいるのか」
「はい。濠州府で挙兵した郭子興殿に仕え、十夫長(十人部隊の隊長)として活躍しているそうです。重八さんは郭子興殿をご存じなのですか」
「危うく殺されそうになった」
 そう言うと可笑しい話でもないのに、愉快そうに笑った。
 子興が挙兵したとすれば、あの奇怪な小娘――馬(ば)鈴(りん)陶(とう)は今や紅巾軍頭領のご令嬢ということになる。
「達。ここに散らばっているのはどれも書状のようだが、すべて和の奴からか」
「いいえ。和さんは筆不精な方ですから、十通ほどしかありません」
「あいつにしては多い方だ」
 重八はそう言いながら寝転んだ。そして手当たり次第、散らばる書状を手にしては目を通した。書状は全て徐達がこの数年間、各地で知り合った者たちから送られてきたものであった。
 これはという書状があれば差出人について尋ねてみた。それに対して徐達は懇切に教え、さらには人物評も付け加えた。
――こいつはただの変人ではない。
 重八が驚いたのは徐達の人物評の的確さであった。だが驚いていたのは重八だけではない。徐達もまた重八の問う 姿勢と着眼点に興奮を覚えるほど感心していた。
 ――やはり重八さんは違う。
 会ったこともない差出人の本質を書状から見出し、徐達さえ気付いていなかった面を重八は見抜くのである。この人物鑑定は非凡なもので、いつの間にか重八の人的魅力の虜となっていた。
 陽がすっかり西にかたむき、徐達は泊っていくよう勧めた。しかし寺に戻らねばならない重八は残念そうに手を振った。
「寺に戻って托鉢をして、それから何をされるのですか」
「鐘離の名刹であった寺を再建するかな」
「平時ならそれも良いでしょう。しかし重八さんだからこそ出来る事、しなければならない事があるはずです」
「それは何だ」
「言わずもがな――」
 徐達は先ほど広げていた地図を指差し、
「天下」
 と、力強く叫んだ。
「買いかぶりだな。食うに困る乞食僧に何が出来る。達は夢物語が好きなようだ」
 重八は嘲笑したが、徐達は笑わない。重八の顔を凝視しながら、「夢物語にあらず」と、言い切った。
 重八はなおも笑いながら笠を手にして徐家を辞去しようとした。しかし何を思ったのか、ふと足を止めた。
「達よ。もし……俺が天下の為に立つと言えば、お前はどうする」
 徐達は瞑目した。そして一語一語を刻みつけるように答えた。
「命を賭して重八さんに従いましょう」
「俺は乞食坊主だぞ」
「王候将相いずくんぞ種あらんや。乱世において身分などは意味なき事。乱世で頼るは位ではなく、己が命を懸けるに値するか否か。朱重八は徐天徳の生涯を懸けるに相応しい人物だとお見受けいたしまする」
 この言葉を聞くと、重八は顔を紅潮させた。生まれてこの方、ここまで己を認めてもらったことがなく、何とも恥ずかしかった。一瞬徐達は自分をからかっているのではないか、と勘繰ったが、そうではないらしい。彼の顔はどこまでも真剣であったからだ。
「いつになるかはわからぬが、時が来たなら必ずお前を誘いに来る」
「その日を心待ちにしております。それまでは同志を募り、鐘離を守ってみせましょう」
 徐達は喜色を浮かべながら拱手し、いつまでも重八の後姿を見送った。

   四

 寺に戻ると言った重八であったが、途中で気が変わった。
 ――姉さんに会おう。
 徐家から戻る途中に、姉が嫁いだ李家があることを思い出したのだ。それと姉の顔と一緒に小生意気な甥っ子の顔が重八の脳裏をよぎった。
 甥の名は保児(ほじ)と言い、寺に入る前は随分と遊んでやったものであった。姉たちのことを思い出すと無性に会いたくなってしまい、寺に戻らず足を李家に向けた。

 この日の夜空はどこまでも澄んでおり、月が煌々と輝いていた。
 疲弊した大地とはえらい違いだ――重八はふとそう感じた。だが考えてみれば雲一つない夜空を愛でるのはいかがなものか。なぜならここ数年の飢饉の原因は雨が降らないためであり、見方を変えればこの夜空の美しさは死への誘いではないか、ととりとめもなく重八は思うのである。
 この三年間、人と心どころか言葉を通わす機会も少なく、重八はすっかり自問自答する癖がついてしまっている。
 李家の門を叩いた時は、どの家も眠りに就こうとしていた時であった。
「もし。どなたかおられぬか」
 重八が再度、門戸を叩くと、門内から警戒した声が聞こえてきた。
「門を叩くは誰?」
 その声は幼い。
 保児だ――。瞬時に甥の声だと察した重八はわざと別人のような声で、「叔父だよ、叔父だ」とおどけてみせた。
 よくわからない客が来たものだ、と首をかしげ、なおも扉を開けようしない保児であった。だがやがてこの声が叔父のものであることに気付いた。
「叔父さんだ、重八叔父さんだッ」
 仔犬のようにはしゃぎ、勢いよく扉を開けた。
「相変わらず元気だ」
 満面に笑みを浮かべる重八の足に保児は抱きついた。
「すっかり大きくなったな。いくつになった」
「十二。叔父さんはいくつになったの」
「二十三だ。叔父さんも大きくなったろう」
「大きくなったと言うより、汚くなったよ」
 保児は鼻をつまみながら大笑いした。重八は苦笑しながら保児の頭を鷲掴みにしてやった。
「ところで姉さんはどこにいる」
「母ちゃんなら周さん家に行ったよ」
「そうか。父さんは?」
 そう尋ねると、急に保児は元気を無くし、うつむいた。重八も真顔になり、優しく抱きしめてやった。保児の父もまた乱世を生き延びることが出来なかったのだ。李家もまた朱家同様、飢饉によってかけがえのない家族を奪われてしまったのである。
「重八?」
 悲しみで言葉を失いかけた重八に、懐かしい声が身を包んでくれた。
「姉さん」
 重八はまるで童に戻ったように無垢な表情でにこりとした。姉はと言えば自分は夢を見ているのではないかと我が眼を疑った。 
「姉さん。ただいま」
 再度、重八が言葉を発することによってようやく夢ではないことを姉は実感することが出来た。
「よく戻ってきたね」
 姉はそう口にしたつもりであったが、涙と嗚咽で言葉にならなかった。
 生きて再会する――平穏な時代であれば何でもない光景であろう。だが乱世においては何でもない当たり前の光景すら感動的な情景となってしまうものだ。
 この夜。
 三人は遅くまで互いの息災を喜び合い、そして語り合った。
 だが亡くなった者たちについては一切触れようとしなかった。いや触れることが出来なかった。多くいた兄弟親族たちの死は運命だと片付けるには余りにも痛々しく、そのことを口にすれば重八たちの心に傷を増やすだけでしかない。
 それよりも、昨日までの無残な過去よりも、明日からどう生きていくか。それだけを考えねば、とても前を向いて歩むことなど出来はしない。貧民にとって残された道は辛くとも惨めでも一日でも長く生き延びることしか光を見出すことは出来ないのだ。

 一夜が明けた。
 姉は質素ながらも朝食を振舞ってくれた。重八は茶碗を掲げるや、恭しく拝礼した。
「これからどうすんだい」
「寺へ戻るだよ」
 箸を置くと、
「もっともすぐに出て行かなければならないかもしれないけどね」
 と、言って苦笑した。
 皇覚寺の荒廃は尋常ではないことは周知のことである。いつ寺を出て托鉢せよと命じられるかもしれない。重八は笑っていたが、姉は満面を涙で濡らし、悲しんだ。
 保児は呑気なもので、
「叔父さんと一緒に旅に出たいなぁ」
 と、無邪気な声で羨ましがった。重八は嘆息しながら頭を小突いてやった。
「遊びじゃないぞ。父さんがいない今、お前が母さんを支え守ってやらないとな」
 保児は笑いながら、「そうだね」と、言って、元気よくうなずいた。しかし一緒に行けないことは寂しいらしく、どこか表情に翳りがあった。

 朝食を終えて一服していると、何やら戸外が騒々しかった。
 重八が首をかしげながら外に出てみると、騒がしい原因は徳興であった。徳興は落ち着きのない男であるが、それにしてもその慌てようは尋常ではない。
「どうした?」
 そう尋ねても、興奮しているためか、話すことがどうにも要領を得ない。重八は保児に命じて水を持って来させ、徳興に飲ませてやった。
「何があった」
 再び尋ねてやると、驚くべきことを知らせた。
「寺が……皇覚寺が蒙古の連中に焼き討ちされた」
 その瞬間、重八の全身は凍りついた。懸命に息を整え、徳興の肩を力強く握り締めた。そしてなぜ焼き討ちなどされたのか、その理由を問いただした。
「蒙古どもが言うには、紅巾軍の連中が鐘離に逃げ出したらしいんだ。そして皇覚寺に賊が隠れているだろう、と言いがかりをつけて火を放ったんだ」
 そう言うと、徳興たちはその場に崩れ、号泣した。
 だが蒙古軍の真の目的は紅巾軍などになかったらしい。賊徒補殺というのは名目で、ただ単に財物を奪いたかったのである。しかし寺には何も残されておらず、腹いせに焼き払ってしまったのだ。理不尽もここまで極まるものか、と重八は憤慨する気力さえも失われる感覚に襲われた。
 かくして蒙古軍の理不尽により皇覚寺は無残にも全焼した。
 重八は急ぎ、寺に戻ったが、どうすることも出来なかった。無論、昨夜寺にいても何も出来なかったであろう。重八はどこまでも無力であった。
「和尚はご無事なのか」
 重八は凄まじい剣幕で、その場にいた呉良の胸倉をつかんだ。
 呉良はたじろぎながら、
「何とか逃げ出したらしいが、あの歳で寺を追い出されたんじゃ、どうしようもない」
 と、答えた。
 花雲も現場に駆けつけており、
「蒙古のくそったれめ」
 と、怒鳴り声を上げて、路傍の石を蹴飛ばした。
 重八は収めようのない怒りで体を震わせた。
 一体蒙古どもはどこまで自分たちを苦しめれば気が済むのか。このような理不尽さが罷り通っていいものか、天を問い詰めてやりたい。行き場所のない怒りは涙となってとめどなく重八の頬を濡らした。
 昼を過ぎると寺と縁のある者たちが続々と集まり始めた。姉も保児を連れてやって来たが、あまりのことにどう声をかけていいのかわからない。重八は黙々と片付けをしながら、頭を下げた。
「私は寺を建て直します」
「建て直す、と言っても、住む場所も、食べる物もないのにどうするつもりだい」
「年老いた和尚を一人には出来ないでしょう。それに私は皇覚寺の僧です」
 重八は焼け跡を見渡すと、和尚が避難した庫裡(くり)へと向かった。
 寺は灰燼と化してしまっている。
 あの流罪を言い渡した本尊もその姿を留めていない。わずかながら庫裡の一部が焼け残っており、和尚はそこにいた。
 重八はまずは庫裡に向かわねばならない。その途中、片付けを手伝っていた老婆がいた。見れば隣に住んでいた汪婆さんであった。
「立派になったねぇ」
「ろくに食ってないのに、体は大きくなるみたいだな」
「そうかい。わたしゃ小さくなるばかりさ」
 と、相好を崩して婆さんは重八の体をさすってやった。
「蒙古もひどいことをするもんだよ。皇覚寺のような立派なお寺を焼き払っちまうなんて、今に罰が当たるよ。死んだ五四(ごし)(重八の亡父)は産まれたばかりのお前を寺に入れると言っていたぐらい、信心深かったからね。きっとあの世で悲しんでいるよ」
 婆さんの話を聞いて、ようやく寺に入るよう勧められたのか、理解が出来た。
 重八に出来ることと言えば、ただ合掌し、一心不乱に経を唱え続ける他ない。しかし経は虚しく空に響き、仏は何も応えてくれない。重八の心に重く暗い闇がおおい尽くそうとしている。読経を終えると、婆さんに頭を下げ、庫裡に足を進めた。
 庫裡に近づくと、甲高い和尚の読経が聞こえてくる。
 重八は庫裡に上がると、和尚の背後に座り、同じく読経を上げた。
 読経しながら重八の心に怒りがこみ上げてくる。何と世は理不尽なことか。またこのような世を作りし仏たちは無責任なことか――。
 ――己の住まいすら守れぬとは、仏も地に落ちたものよ。
 またあの本尊を蹴飛ばしてやりたい衝動にかられた。しかしその本尊は焼けてしまい、その姿すらない。
 そんな不遜な思いに和尚は勘づいたらしい。読経を終えるなり、
「不信心者め。それでも僧侶か」
 と言って、鋭く一喝した。重八は口答えせず、ただ頭を下げたが、神仏への怒りは収まってはいなかった。そんな重八に和尚は嘆息し、懇々と言い聞かせてやった、
「若いそなたにはわからぬかもしれぬが……世を済うは御仏ではない」
「では御仏は何をお救いになるのですか」
「心よ」
「心?」
「御仏がお救いになるのは我らが心よ。世を済うは人であり、御仏ではない」
 重八には理解出来ない。
 三年間。東西南北、托鉢しながら仏に祈り続けた。だがただの一度も心を救われたことはない。常に悲しみと苦しみが付きまとい、何度この世に生を享けたことを恨み続けてきたことか。頼れるは己ただ一人。誰も重八を救ってくれる者はいない。
 ただ一人例外はあった。
 定遠の鈴陶である。彼女だけは重八を懸命になって救ってくれた。もし心を救ってくれるのが御仏ならあの娘こそがそうではないか、と埒もないことを考えた。
 和尚は重八が納得していないことを察している。だが二十ちょっとの若者に理解させることが難しいことも承知していた。
「若さは力だ。若き頃は力のみで進むことが出来る。だが人の力は限りがある。どんなにあがこうともどうしようもないことがあるのだ。例え全ての頂点に立つ天子様でさえもじゃ。じゃが……」
 和尚は言葉を途切らせ、微笑した。
「親の心を子は知らぬもの。若さを失えば、御仏はきっとそなたに人生の杖をお与えになるじゃろう。わしはそなたに何も与えられず、そして残してやれなんだ。今は邪魔に思えるかもしれぬが、興宗よ。この言葉を餞別だと思って心に留めておいてくれ」
 重八は和尚の「餞別」という言葉にはっとした。和尚は申し訳なさそうな顔をしながら合掌した。
「また追い出さねばならぬとは、不甲斐ないことじゃ。じゃが……寺はこの有り様。もはや再建することは不可能じゃろう。今度こそそなたとは別れの時じゃ」
 和尚はそう言うと、はらはらと涙を流した。重八も身体を震わせながら合掌し、今までの恩に感謝した。
「興宗よ」
 和尚は懐から一通の書状を取り出すと、重八に手渡した。
「和めがそなたに出したものじゃ」
「ま、まさか?」
 湯和の書状を握りしめ、重八は蒼ざめた。
 今回の騒動は湯和の書状が原因ではないかと思ったのである。重八は額を床に叩きつけるようにして謝罪した。仏を責める前に自分こそ責められるべきではないか、と謝り続けた。しかし和尚は笑いながらかぶりを振った。
「馬鹿なことを申すな。興亡は天の定めによるもの。それに和の書状は関係ない。蒙古どもが欲しかったのは寺の財物じゃ。それがないから焼き払っただけのこと。つまり寺の命運が尽きたに過ぎぬ。じゃがの……。寺は無くなったがわしにも、そなたにも命がある。命を残してくだされた……これこそが御仏のご加護というものじゃ」
「興宗は悪しき弟子でございました。紅巾軍に身を投じた和からの書状が参ったからには、ここにいるは迷惑以外何者でもありますまい」
「人の噂はたちまちに千里を駆ける。一刻も早く身支度をし、寺を出るが良い。誰が密告するやもしれぬ」
 和尚の言うように一刻も早く郷里を出ねばならなかった。ここで捕縛されたならば連座として寺のみならず、姉や徳興たち友人にまで迷惑をかけることは想像に難くなかった。

 だが、重八は思い悩んだ。
 寺と鐘離を出てどこへ行けと言うのか。そもそも放浪することに限界を感じたからこそ帰郷したのである。今度という今度こそ行くあてがまるでなかった。
 そんな重八を心配した徳興たちが駆けつけてくれた。重八は花雲が手にしていた賽を見るや、大きく息を吸った。
「雲、よこせ」
 何を思ったのか、賽を借り受けた。
「何を賭けるんだ」
 花雲が尋ねると、重八は首を横に振った。
「賭けじゃない。行くあてを占うのさ。旅先でな。占い師の親父に教えてもらったのさ。俺は人生を占ってみたい」
 花雲にはよくわからなかったが、賽を投げ渡した。重八は進むべき道の吉凶を占うこととした。
 ――人生行き詰れば、頼るは御仏と和尚は仰っているが、こういうことなのか。
 情けなくも思ったが、藁にもすがる思いで賽を振った。

 まず占ったのはこのまま寺または鐘離に留まるべきかどうか。
「凶」
 と、出た。
 この道はない、と考えていたため、重八には当然異論はなかった。
 次は再び托鉢の旅に出て露命を繋ぐかどうか。
 これもまた、
「凶」
 と、出た。
 托鉢することも進むべき道ではないらしい。
 ならば――。重八は湯和の書状を握りしめた。
「和のいる濠州へ赴き、この身を紅巾軍に投ずるべきか、否か」
 重八は賽を振った。
 すると、
「大吉」
 と、出た。
 念の為に三度占ってみた。そのいずれも、
「大吉」
 と、出たのだ。
 重八は天を仰ぐように顔を上げ、大きく息を吸い、そして長く吐いた。
 命懸けの道であることは間違いない。だがこのまま手をこまねいていては破滅しか待っていないだろう。身を捨ててこそ浮かぶ瀬があるものだ。
 重八は決心した。
 一か八か。どうせ死ぬなら、世を回天させるために、この命を使ってみたい。男ならば天下に名を轟かせるべきであろう。憎き蒙古どもに一矢でも報いてやりたい。重八は紅巾軍に身を投じることを決意した。

 重八は賽を花雲に返し、清々しい表情を見せた。
「俺は紅巾に行く」
 花雲と呉良は黙ってうなずいたが、徳興は自分も連れていけと、すがるように懇願した。 だが重八は首を縦に振らなかった。
「お前たちはここに残ってくれ。そして達とよく連絡し合って、来るべき日に備えて同志を集めておいてほしい。和と一緒に戦い、道が開けば必ず迎えに行く。時が来るまで、鐘離を頼むぞ」
 重八は深く頭を下げると、満面に笑みを浮かべた。

 時に至正十二年閏三月。
 重八は濠州城へ向かってひたすら走り続けた。乱世に向かって朱重八という賽が振られた瞬間であった。

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