一海漫遊記【春日大社宝物展2012年】

2012年6月17日~天皇陵めぐり+春日大社宝物展~
ようやく春日大社へ行って参りました。目的は言うまでもなく宝物館で開催されています「赤糸威大鎧(梅鶯飾)修理記念 鎧と武士の晴れ着」を観に行くためです。


そのついでに天皇陵めぐり&ウォーキングもして参りました。

まず谷町9丁目まで軽く歩き、いざ西大寺へ。
西大寺の目的はお気に入りのカレーショップ「マナビアン」でカレーを食べることです^^いやー、相変わらず美味い!

カレーを食べた後はいよいよスタートです。
まず初めに到着したのは46・48代称徳(孝謙)天皇陵。



称徳天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で、道鏡を寵愛した女帝です。

その隣にあるのが13代成務天皇陵です。



成務天皇は日本武尊の兄にあたる大王です。

この一帯は歴史の道となっており、陵墓が密接しています。
例えば垂仁天皇の皇后陵もありますし、三韓征伐で有名な神功皇后陵もあります。



さてさらに足を伸ばして平城京大極殿の裏側に参りますと、51代平城天皇陵がひっそりとたたずんでいます。




平城天皇は平安遷都をした桓武天皇の嫡男で、桓武天皇崩御後に帝位に即いた人物です。その後弟の嵯峨天皇に位を譲り、平城京に引退していましたが、愛妾の藤原薬子とその兄・仲成と諮って帝位奪還を目論んだ帝です。
いわゆる「薬子の変」(最近は平城上皇の変とも言うらしいです)と呼ばれる政変の主人公です。
平城天皇陵の周辺には民家が密接しており、入口がどこか迷いましたが、大極殿裏手から行きますと驚くほど簡単に行けました^^;
もうほんまに迷わんでええのに迷ってしまうのが私だったりします^^;;

平城天皇陵の次はいよいよ春日大社へまっしぐらですが、せっかくですので平城京跡を抜けていくことにしました。
いつもながらのんびりとした雰囲気が漂っており、気持ちよくウォーキングが出来ました^^



平城京を抜け、東に向かいますと天平時代に活躍した長屋王邸跡の碑があります。

長屋王は天武天皇の孫で、藤原氏の台頭を抑えようとしていましたが、謀反の疑いによって自害した人物です。

さらに東へ東へと向かっていますと、近鉄奈良駅の近くに小さなお寺がありました。葵の御紋がついていましたので、何かなと寄ってみますとやはり徳川家と縁のあるお寺でした。


山の寺「念仏寺」というお寺です。
大坂の陣で真田幸村に襲われた家康が、ここに逃げ込み、九死に一生を得たというお寺です。
奈良や京都はやはり歩かないとこういう場所は見つからないなと思うお寺でした^^

近鉄奈良まで来れば、春日大社まであと少しです。
春日大社にたどり着き、一休みしていますと、何やら「バスンバスン」という音が聞こえてきます。

見れば流鏑馬の稽古をされていました。
木馬に乗っての稽古で、写真でこそこの練習方法は知っていましたが、初めて見ることが出来ラッキーでした^^


さていよいよ宝物館です。
広くはないですが、その内容は本当にコアでした^^
展示されていたのは国宝 赤糸威大鎧(梅鶯飾) 、国宝 赤糸威大鎧(竹虎雀飾)、国宝 黒韋威矢筈札胴丸の三領です。
いずれも間近で見ることが出来、とても怪しいオッサンとなってじっくり見学いたしました。
今回は設計図とも言うべき絵図面が展示されており、甲冑を作る者としてはとても勉強になりました。
また金物類の美しさに心奪われるようです。
ただ一つ不思議に感じたのは赤糸威大鎧(梅鶯飾)の菱縫です。草摺部分の菱縫が不規則なのが気になりました。考えられるのは製作当時は何も考えていなかったのか、または修復時(近現代ではなく)に間違ってしまったのかのどちらかだと思います。

さらに感動したのが酒井家から奉納された鎖籠手です。
鎖の編み方が芸術的なほどしっかりとしており、どうやって再現出来るのかずっと唸ってました^^;;
そして太刀類も素晴らしかったです。
兵庫鎖太刀が展示されていたのですが…欲しいなあ~^^
ただここでも疑問が。金装花押散兵庫鎖太刀は三代将軍足利義満が奉納したものなのですが、年代が1365年とありました。ですがこの時義満は7、8歳でまだ父の義詮が健在であったはずです。また一門の花押が書かれているのですが、一門って誰なのだろうかとわくわくしながら拝観いたしました。

ちなみにこの展示会ですが、朋月さんや幽霊雑兵さんをはじめとする甲冑作りの方には絶対お勧めです^^創作意欲、湧きますよ~♪

宝物館を出て向かったのは久しぶりの鹿屋さんです。
鹿屋さんでお話しさせていただき、お土産に葛餅をいただきました^^

鹿屋さんを出て最後に向かったのは聖武天皇・光明皇后陵です。
そのついでに鎌倉以来の遺構である転害門です。

この門は別名「景清門」と呼ばれています。
景清とは大河『平清盛』にも登場する平家の侍大将・藤原(伊藤)忠清の子のことです。
彼は平家滅亡後も生き延び、源頼朝が東大寺を訪れた時にこの場所で殺そうと待ち受けていたと伝えられています。そのためこの別名が付けられました。

その転害門から西に向かいますと聖武天皇・光明皇后陵に辿り着きます。







こうして無事奈良巡りも終了いたしました。
次回は聖武天皇陵近くにある元明天皇陵や、西ノ京にある垂仁天皇陵を訪れたいものです。

ざっと4時間ほど歩きましたが、楽しかったためか全然疲れませんでした^^
来月は聖徳太子のお墓と用明天皇陵を見に、河内長野方面へ行ってみるかな??

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